ネーデルラント連邦共和国
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- ネーデルラント連邦共和国
- Republiek der Zeven Verenigde Nederlanden
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← 1579年 - 1795年 →
(国旗) (国章) - 国の標語: Eendracht maakt macht
団結は力なり
Concordia res parvæ crescunt
団結により小さなものも大きくなる
ネーデルラント連邦共和国の位置(1789年)-
公用語 オランダ語 国教 オランダ改革派 宗教 カトリック
ユダヤ教
ルター派首都 ハーグ(事実上) - 総督(統領)
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1581年 - 1584年 オラニエ公ウィレム1世 1625年 - 1647年 オラニエ公フレデリック・ヘンドリック 1672年 - 1702年 オラニエ公ウィレム3世 1747年 - 1751年 オラニエ公ウィレム4世 1766年 - 1795年 オラニエ公ウィレム5世 - 人口
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1795年[1] 1,880,500人 - 変遷
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ユトレヒト同盟結成 1579年1月23日 Plakkaat van Verlatinghe
(一般的には独立宣言とみなされている)1581年7月26日 ミュンスター条約
(スペインが独立を承認)1648年1月30日 滅亡 1795年1月19日
通貨 ギルダー 現在 オランダ
ベルギー
オランダの歴史 |
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![]() |
古代 |
ローマ帝国 58-476 |
民族大移動時代 |
中世 |
フランク王国 481-950 |
神聖ローマ帝国 962-1648 |
ブルゴーニュ公爵領 1384-1482 |
ネーデルラント17州 1477-1556 |
オーストリア領 1482-1581 |
ネーデルラント連邦共和国 1581-1795 |
近代 |
バタヴィア共和国 1795-1806 |
ホラント王国 1806-1810 |
フランス第一帝政 1810-1815 |
ネーデルラント連合王国 1815-1830 |
現代 |
ネーデルラント王国 1830-現在 |
ネーデルラントの歴史 | ||||||||
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フリーシー族 | ベルガエ族 | |||||||
カナネファテス族 | カマウィ族 トゥバンテス族 |
![]() ガリア・ベルギカ (紀元前55年 - 5世紀ごろ) ゲルマニア・インフェリオル (83年 - 5世紀ごろ) | ||||||
サリ・フランク族 | バタウィ族 | |||||||
無人 (4世紀 - 5世紀ごろ) |
ザクセン族 | サリ・フランク族 (4世紀 - 5世紀ごろ) |
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フリースラント王国 (6世紀ごろ - 734年) |
フランク王国(481年 - 843年) カロリング帝国 (800年 - 843年) | |||||||
アウストラシア(511年 - 687年) | ||||||||
中部フランク王国(843年 - 855年) | 西フランク王国 (843年 - 987年) |
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ロタリンギア王国(855年 - 959年) 下ロタリンギア公国(959年 - 1190年) |
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フリースラント | ||||||||
![]() フリースラントの自由 (11世紀 - 16世紀) |
![]() ホラント伯国 (880年 - 1432年) |
![]() ユトレヒト司教領 (695年 - 1456年) |
![]() ブラバント公国 (1183年 - 1430年) ![]() ゲルデルン公国 (1046年 - 1543年) |
![]() フランドル伯国 (862年 - 1384年) |
![]() エノー伯国 (1071年 - 1432年) ![]() ナミュール伯国 (981年 - 1421年) |
![]() リエージュ司教領 (980年 - 1794年) |
ルクセンブルク公国 (1059年 - 1443年) | |
![]() ブルゴーニュ領ネーデルラント(1384年 - 1482年) |
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![]() ハプスブルク領ネーデルラント(1482年 - 1795年) (ネーデルラント17州1543年以降) |
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![]() ネーデルラント連邦共和国 (1581年 - 1795年) |
![]() スペイン領ネーデルラント (1556年 - 1714年) |
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![]() オーストリア領ネーデルラント (1714年 - 1795年) |
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![]() ベルギー合衆国 (1790年) |
![]() リエージュ共和国 (1789年 - 1791年) |
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![]() バタヴィア共和国(1795年 - 1806年) ホラント王国(1806年 - 1810年) |
![]() フランス第一共和政(1795年 - 1804年) フランス第一帝政(1804年 - 1815年) | |||||||
![]() ネーデルラント連合公国(1813年 - 1815年) |
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ネーデルラント連合王国(1815年 - 1830年) | ![]() ルクセンブルク 大公国 (同君連合、1815年 - ) | |||||||
オランダ王国(1839年 - ) |
![]() ベルギー王国(1830年 - ) | |||||||
ルクセンブルク大公国 (1890年 - ) |
ネーデルラント連邦共和国(ネーデルラントれんぽうきょうわこく、オランダ語: Republiek der Zeven Verenigde Nederlanden、英語: Republic of the Seven United Netherlands)は、16世紀から18世紀にかけて現在のオランダおよびベルギー北部(フランデレン地域)に存在した国家である。現在のオランダ王国の原型であり、そのことからオランダ共和国などと呼ばれることもある。
連邦共和国はヘルダーラント州、ホラント州、ゼーラント州、ユトレヒト州、フリースラント州、オーファーアイセル州、フローニンゲン州のネーデルラント北部7州からなり、これにドレンテ準州、国境地帯の連邦直轄領ブラーバント、リンブルフ、フランデレンなどが加わっていた。中でもホラント州が連邦の経費の半分以上を負担し、人口、富、対外関係の面で他の6州より抜きんでていた。そのため、この州の名がそのまま連邦共和国、さらに今日の王国の通称となった。日本語名の「オランダ」もホラントのポルトガル語名に由来する。
歴史
成立
1579年のユトレヒト同盟が基礎となって成立したが、建国宣言や独立宣言のようなものはなかったので、成立年は明確ではない。1795年にフランス革命軍の侵攻によって崩壊した。
歴史教科書などでは、宗主国スペインのフェリペ2世の統治権を否定した1581年の宣言を独立宣言とするものも多い。ただし、この時点では独立国家の樹立や共和制国家の成立を目指していたわけではないので注意を要する。
終焉
1794年9月、フランス軍はオランダへの侵攻を開始し、10月2日にルール川を渡り、1795年1月にはフランスの傀儡国家バタヴィア共和国が宣言される。1795年5月16日、オランダはハーグでフランスと講和条約を結び、500万フローリンの賠償金支払いを約束させられた[2]。
国旗
国旗は橙・白・青の横三色旗だったが、1630年代以降は色褪せしやすい等の理由で、現在のオランダの国旗と同じ赤・白・青の配色へと変えられた。なお、オランダからの移民であるアフリカーナーをルーツの一つとする南アフリカ共和国では、1927年から1994年まで国旗の地色に橙・白・青の横三色を用いていた(南アフリカの国旗を参照)。
脚注
- ^ Demographics of the Netherlands, Jan Lahmeyer. 2017年5月26日閲覧
- ^ ソブール 下144-146
参考文献
- アルベール・ソブール著、小場瀬卓三・渡辺惇訳『フランス革命』、岩波新書、1953年(参照したのは1980年の第28版)、上 ISBN 978-4004130215 、下 ISBN 978-4004130222
関連項目
ネーデルラント連邦共和国
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「オランダの歴史」の記事における「ネーデルラント連邦共和国」の解説
詳細は「南ネーデルラント」および「ネーデルラント連邦共和国」を参照 1585年にホラント州およびゼーラント州の総督に任命されたマウリッツ・ファン・ナッサウは、1591年までに更にユトレヒト州、ヘルダーラント州、オーファーアイセル州総督にも就任し、反乱側の指導者としての地位を確立する。1596年にはフランスとイングランドが北部7州を国家として事実上認める条約(グリニッジ条約)を締結し、うやむやのうちにネーデルラント連邦共和国が成立していたことになった。 共和国が成立してもスペインとの戦争は終わらなかった。ネーデルラント諸州は1602年、アムステルダム証券取引所とともに連合東インド会社(オランダ東インド会社)を設立してアジアに進出し、ポルトガルから香料貿易を奪取し、世界の海に覇権を称えた。このため貿易の富がアムステルダムに流入して、17世紀の共和国は黄金時代を迎えることとなる(オランダ海上帝国)。1609年にはスペインとの12年停戦協定が結ばれたが、1621年に停戦が終わると、独立戦争はヨーロッパ全体を巻き込んだ三十年戦争にもつれ込んだ。1648年、三十年戦争を終結させたヴェストファーレン条約の一部であるミュンスター条約で、スペインはネーデルラント連邦共和国の独立を正式に承認し、80年にわたる戦争(八十年戦争)は終結した。 オランダ東インド会社は、アジアだけでなく南北アメリカにも植民地を築いた。しかし各地の植民地でイギリス東インド会社と衝突し、ついには3次にわたる英蘭戦争となった。オランダ政府は1656年、のちにライクスヴェルフ(英語版)となる兵器製造所・戦艦造船所を創設した。 1672年、イングランドがオランダに宣戦布告し(第三次英蘭戦争)、続いてフランス王国も宣戦を布告した(オランダ侵略戦争)。この国家的危機のため、1672年は「災厄の年(英語版)」と呼ばれる。オラニエ派(英語版)と共和派の対立も深まり、ついには1653年以来共和制の指導者であったヨハン・デ・ウィット兄弟が倒され、ウィレム3世が総督職に就いた。 1688年、ウィレム3世はイングランドへ侵攻し、ジェームズ2世は国外へ逃れた(名誉革命)。ウィレム3世は妻メアリー2世とともにイングランドの共同統治者(ウィリアム3世)となり、イングランド(およびスコットランド、アイルランド)とネーデルラントは1702年までの20年余、ともに同じ元首を頂くことになった。18世紀始めに勃発したスペイン継承戦争ではネーデルラントはフランス・スペインを相手にイギリスとともに戦った。1747年、オーストリア継承戦争の最中、フランスに侵攻されたが、なんとか撃退した。 18世紀末葉になるとフランスの啓蒙思想が共和国にも流入したが、オランダ総督のウィレム5世が優柔不断な態度を取っていたため、統領職を代々世襲するオラニエ=ナッサウ家に対する反感が高まった。さらにアメリカ独立戦争でイギリスと対立し、第四次英蘭戦争を起こして敗北(ただし、アメリカ独立戦争ではイギリスが敗北したため、オランダの損失は植民地のナーガパッティナムのみ)、1785年に愛国派(パトリオッテン)が蜂起する結果になった。
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