食物と血液
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 06:06 UTC 版)
森下の医学生時代、ウシ、ウサギ、ヤギなどの草食動物の腸内は完全に葉緑素の世界であるのに、腸の壁1枚隔てた外側は赤い血の世界に変わることを不思議に思い世界中の文献を漁る。 欧米では、デュラン・ジョルダ(マンチェスター)が、ラクダの腸で造血するという「腸造血」を唱え1950年に「ネイチャー」に発表、その2 - 3年前にはベストレーム(ストックホルム?)が同様の説を発表していた。 森下は敗戦後の医学生時代に、オタマジャクシがカエルに変態していく過程の血液の状態を観察し続けていた。オタマジャクシは手足が無いのに、大人のカエルと全く同じ形の赤血球が同じ数だけ存在しており、造血に手足の骨髄は関係ないことをすでに確認済みであった。 それ以前に、動物の骨髄組織の95%は長幹骨(大腿骨、下腿骨、上腕骨、前腕骨)に存在することを実験によって確認しており、骨髄組織と体を連結している血管を遮断しても貧血が起こらないことも実験で済みである。 卒業後の1年間(1951年)、国立相模原病院(陸軍第三病院)にインターンとして勤務し、多くの戦傷者の中で手足を失った兵士たちを観察すると、みな血色が良いことに気づく。彼らに協力を依頼し採血して調べたところ、普通の人より赤血球がmLあたり数十万個多いという結果を得た。 それ以前に、動物実験で腸の壁に細胞毒を注射して腐敗させると貧血が起こることを確認しており、それらの実験を前提として「腸管造血説」へ辿りついていく。 昭和29 - 30(1955)年頃、森下は動物実験で、白米を与えた場合より玄米を与えたほうが血液の状態が良いこと、動物性のものを多く与えると血液の状態が悪くなるというデータを得て、食餌による白血病の治療を研究するようになる。 昭和31、32(1956 - 1957)年ころ、桜沢如一(日本の食医とされる石塚左玄の直弟子で「マクロビオティック」の提唱者)のグループの集まりで、森下は自己紹介を兼ねて研究内容を話したところ、桜沢が大いに関心を示し交流が始まった。 昭和32 - 33(1957 - 1958)年、座間近くの養鱒所でニジマスの白血病が多発し、調査を依頼されて解剖すると肝臓がはれあがっていた。餌は、大型魚の廃棄部分から抽出したエキスを濃縮した高タンパクの固形飼料であった。対策として森下は、フスマと麩、山に自生する雑草を乾燥粉末にした葉緑素、わずかな魚エキスを加えた餌を作って与えたところ、問題はすべて解決した。 そのことが新聞の地方版に掲載され、今度は養鶏場から鶏の白血病の調査依頼が殺到する。その中で、神奈川県二宮で県内一の養鶏所(田代養鶏所)があり、そこの調査依頼を受け、鶏の羽の下の静脈から採血し顕微鏡で観ると、状態の悪い鶏はすべて典型的な白血病だった。養鶏所から白血病の鶏4 - 5羽を貰い受け、研究室に飼育室をつくり、鶏小屋の環境改善には腐葉土を敷き、餌として玄米とキャベツと粗塩を与えたら全羽が治癒した。 ニジマス(座間の養鱒場)と鶏の白血病を解決したあと、改めてヒトの白血病に向き合おうとしていた昭和35 - 36(1960 - 1961)年、桜沢が研究室を訪れ、完治した鶏とその血液の顕微鏡写真を観て、病鶏の治療に生玄米、キャベツの芯、粗塩を与えたこと、鶏小屋の床に腐葉土を敷いたことが勝因だと述べ、ヒトの白血病対策にも期待を示す。 その折、研究員全員が玄米飯とキャベツに粗塩の食事をしていたのを、桜沢夫人が鉄火味噌を加えるよう助言している。
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