露見・拘束
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 08:28 UTC 版)
7月23日午後8時、宮崎は東京駅を避けて新橋駅から二等寝台で出発した。切符購入の際の記名には「高田隆助」という変名を用いた。途中で秋山から電報が入ったため、京都で下車して電話で連絡をとると「今朝閣議前に、陸軍大臣の杉山元が近衛公のところへ行くことになっている。何か問題が起こるかも知れんから、そのつもりで気をつけておけよ」という忠告であった。宮崎は持っていた印鑑を航空便で東京へ送り、メモや手帳を引き裂いて処分し、出航15分前という時刻に長崎丸に乗船した。 7月24日午前9時頃、宮崎が船室に入ったのち、サロンに出るとそこで「失礼ですが、あなたは宮崎さんですね」と私服の憲兵隊員(神戸憲兵分隊員)に肩をたたかれ、下船するよう告げられた。宮崎は相手側と打ち合わせた上での渡航であると言い返したが、荷物はすでに下ろされていた。蕭武官と南京とのあいだの電報は陸軍に傍受されており、宮崎の上海行きも海軍がその事実を電報傍受によってつかんでいた。これを知った陸軍強硬派が憲兵を動かして宮崎を拘束したものと考えられる。宮崎の回想録には、陸軍省の後宮淳軍務局長が宮崎が東京を出発する前後に近衛に面会を謝絶されていたこと、宮崎宅が憲兵によって四六時中見張られていたことが記されており、露見は時間の問題であったと推測される。 宮崎は神戸憲兵分隊で待たされた後、「県庁に知り合いはいないか」と尋ねられた。神戸で憲兵に捕まった事を知った近衛は、憲兵から司法省に引き取らせようと考え、塩野季彦司法大臣→馬場鍈一内務大臣→岡田周造兵庫県知事というルートで身柄の引き取りを命じていたという。そうとは知らない宮崎は憲兵隊にいすわり、7月31日の午後になって本部から来た私服の曹長に簡単な供述調書をとられた。内容は「近衛公の依頼を受けて南京へ行こうとしたのは誤りであった」という曹長の作文であり、宮崎は署名だけはしたものの拇印は押さなかった。なお、宮崎宅は宮崎が憲兵に捕まってすぐ家宅捜索を受けており、宮崎留守のあいだ一家はこれを避け、長野県蓼科の別荘に避難していた。 翌8月1日、宮崎は東京へ送還され、憲兵本部で始末書を提示された。その内容は前日の供述書と同じく「近衛公の私的依頼を公的な依頼だと思ったのは誤解であった」というものであり、これに署名捺印すればすぐに釈放する手はずになっていると告げられた。宮崎が憲兵本部から釈放されると、妻の燁子(柳原白蓮)とその友人が迎えに来ていた。秋山定輔の方は3日間憲兵隊本部に身柄を拘束され、彼の自宅もまた厳しい家宅捜索を受けた。こうして宮崎が一役担うはずだった日中全面戦争回避の和平工作は幻に終わった。 のちに宮崎が第1次近衛内閣の内閣書記官長だった風見章と話す機会があったとき、工作のための中国への渡航費用4,000円は内閣が出したものであった事実を風見より知らされたという。 近衛文麿が半ば公的な資格で自身の密使として宮崎龍介を選んだのは、彼が中国革命の支援者であった宮崎滔天の長男だったことも当然あずかっていたと思われるが、近衛の回想(近衛文麿『平和への努力』1946年)によれば、1936年の二・二六事件の直後、中華民国駐日大使館筋から日中和平の連絡係として「若いところで宮崎龍介、年寄りでは秋山定輔」という実名をあげて希望が示されていたことを近衛が印象深く記憶していたのだという。
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