長い不遇の時代
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つげ義春が1970年の『やなぎ屋主人』完結を最後に休筆に入ったのに加えて、同年には滝田ゆうの『寺島町奇譚』の連載が終了、1971年には白土の『カムイ伝』が終了し、これと共に『ガロ』の売上は徐々に下降線をたどり、原稿料も既に支払を停止せざるを得なくなっていった。水木しげるが『ガロ』1970年10月号から連載を開始した『星をつかみそこねる男』も連載中は青林堂の経営悪化が原因で原稿料が全く支払われなかったという。『ガロ』を強く意識していた手塚治虫の漫画雑誌『COM』は『ガロ』のように「原稿料ゼロ」という訳にはいかず、1971年末に廃刊する。 時期を同じくして水木しげる、林静一、つげ忠男、楠勝平、佐々木マキ、辰巳ヨシヒロら黎明期の作家陣が『ガロ』の誌面から姿を消す。その一方で『カムイ伝』の連載が終了した1971年7月号で花輪和一が入選したのを皮切りとして同年10月号では川崎ゆきおが入選、1973年には蛭子能収、菅野修、ますむらひろしが入選。これに加えて安部慎一、鈴木翁二、古川益三ら「ガロ三羽烏」や「一二三トリオ」と称された文学性の強い新人作家が同時期に入選し、『ガロ』の世代交替が起こる。後に古川は中野ブロードウェイに漫画専門の古書店「まんだらけ」を開店する。 1973年7月号には赤瀬川原平が『ねじ式』の画期的なパロディ漫画『おざ式』を描く。同年、長井勝一は山上たつひこ初期の代表作『喜劇新思想大系』の単行本刊行に際して山上と打ち合わせを行う。この打ち合わせで長井は「あれは面白いけれど、あくまでも大人のものだから『喜劇新思想大系』を子供向けにして出版社に持っていったら受けるんじゃないか」と山上に助言し『がきデカ』誕生の契機を作る。1976年4月号からは糸井重里原作・湯村輝彦作画による元祖ヘタウマ漫画『ペンギンごはん』の連載が開始、蛭子能収や根本敬、みうらじゅんなど『ガロ』出身の作家に多大な影響を与え、1980年代におきるヘタウマブームの嚆矢となる。 その後、当時編集部に在籍していた編集者であった南伸坊や渡辺和博らが一時編集長となり、面白ければ漫画という表現に囚われぬという誌面作りを提唱(=「面白主義」)した。その結果、サブカルチャーの総本山的な立場として一部のマニア、知識者層、サブカルチャーファンなどに一目置かれる。しかし1980年代には、バブル景気で金余りの世相にありながら『ガロ』の部数は実売3000部代まで落ち込み、神田神保町の明治大学裏手の材木店の倉庫の二階に間借りして細々と営業する経営難を経験する。 この頃になると社員ですらまともに生活が出来ないほど経営が行き詰まっており、完全に単行本の売上によって雑誌の赤字を埋めるといういびつな体制になっていた。それでも社員編集者たちは『ガロ』以外の媒体から単行本を刊行させてくれる作家を見つけ、編集の合間に営業や倉庫の在庫出し、返品整理をするなどして『ガロ』を支え続けた。また「『ガロ』でのデビュー=入選」に憧れる投稿者は依然多く、部数低迷期にあってもその中から数々の有望新人を発掘していった。新入社員も1名募集するだけで、薄給にも関わらず100名200名が簡単に集まったという。 1981年に『ガロ』でデビューした特殊漫画家の根本敬は当時の『ガロ』と青林堂について「妖怪みたいなもんですね。そもそも『ガロ』って名前自体が白土三平さんの漫画の中に出てくる妖怪からとられていたんです。ノーギャラなのに、『ガロ』に描きたいって人がわんさかいましたし、青林堂の社員だって給料安いのに、競争率は講談社とか集英社の比じゃなかったですから」と語っている。
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