国鉄C59形蒸気機関車とは? わかりやすく解説

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国鉄C59形蒸気機関車

(鉄道省C59形蒸気機関車 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/24 08:20 UTC 版)

国鉄C59形蒸気機関車(こくてつC59がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省設計した、幹線旅客列車テンダー式蒸気機関車である。愛称はシゴクまたはシゴキュウ


注釈

  1. ^ 当時、南アフリカ国鉄の技師長 (Chief Mechanical Engineer: CME) であったA.G.ワトソンによって計画され、1935年(昭和10年)にドイツヘンシェル社で6両が製作された。
  2. ^ 特甲線規格で規定される許容軸重16.0 tに動軸のみ+5 %を加算した値。なお、甲線以上で用いられていた橋梁の設計荷重はKS18あるいはクーパー氏E40(最大軸重40,000ポンド=18.14 t)、つまり最大軸重18 tを許容していたが、東海道・山陽本線であっても路盤が脆弱な区間が少なくなく、保線員が人海戦術ツルハシ等によりバラストの更換を実施していた保線状況をも含めて考慮すると、両線の軸重16 t以上への規格引き上げは困難であった。
  3. ^ 鏡板は同じ型を用いて製造された。
  4. ^ 16.0 kg/cm2への引き上げが実施された。なお、この圧力引き上げはC57・C58形で実施済みで、C58形では18 kg/cm2での試験も実施されていた。
  5. ^ 重心位置が後方に偏るのを防止し、かつ必要な蒸発能力を確保する目的で鉄道省制式大形蒸気機関車の標準値と比較して500 mm長い、6,000 mmの煙管長が設定されている。しかし標準的な構造の機関車の試験の結果として、蒸発量は火室と煙管で半々に過ぎないことが確かめられており、一定以上、具体的には5,000 mm以上の煙管長を持たせても蒸発量の増加は誤差程度に過ぎず、重心の問題がなければこれ以上の長さを取るべきではない。つまり性能向上の観点からは"従台車側で対策を採った上で重心の後方移動を受忍してでも短縮"するか、"製造時の工数の増大を受忍してでも燃焼室を設けて、燃焼効率の改善と重心の前方への保持を両立"するべきものを、そちらの対策を等閑に付し、かつが詰まりやすくなったりより大きな通風力を必要としたりといった弊害を無視して長く取ったわけである。無論、これは本機のボイラー性能上の欠陥と直結した。なお、火床面積は3.27 m2でD51形と同一で、火室部分の設計もほぼ共通である。
  6. ^ C55・C57形に採用されたLT217の改良型に当たり、後にC61・C62形にも採用された。
  7. ^ C57形やD51形に使われたLT154系をC59形の条件に合わせて設計を修正したもの。
  8. ^ ただし後述の79・80号機に限っては、燃焼室(火室容積を増積し、燃焼効率を上げるため)+シュミット式E形過熱装置を導入した関係で、例外的に第3缶胴を2分割した4缶胴構成とされ、第四缶胴は板の厚みの分だけ原型よりさらに太くなっている。
  9. ^ このボイラーは缶中心高はC53形と同じ2,530 mmに設定されており、直径が増大している分だけ重心が上がっているが、それでも極力重心を下げる努力が払われていたことが見て取れる。
  10. ^ ただしシリンダ面積の縮小比率はボイラー圧力の引き上げ率よりも小さく、差し引きしたトータルの出力はC53形並みの値が得られるものであった。
  11. ^ 行程や動輪径が同一であること、それに実用最高速度が変化していないことなどからも明らかなとおり、弁装置そのものも含め足回りは基本となったC51形の設計から全く進歩がない。
  12. ^ ただでさえ長煙管で通風抵抗が大きくなっているにもかかわらず、排気抵抗の増大(=気筒効率の低下)と通風力のさらなる低下を招く排気膨張室を設置してあるため、母胎となったD51形と比べ缶効率が約1割悪化した。戦後形はさらに排気膨張室が拡大され、実運用上での問題は深刻化、長距離運用に不安をきたしたため、排気膨張室の縮小工事を受けた個体も存在した。このように、排気膨張室は本機にとって全く不要の装備と言ってさしつかえない運用実態を示した。
  13. ^ 一般にレシプロ機関の往復運動部品は、その質量の増大が振動の増大と直結する。にもかかわらず、そして通常の機関車よりも高速での走行時間が長い運用への充当を前提に設計されたにもかかわらず、本形式のピストンや弁装置はその構造・材質共に重量軽減に対する充分な配慮がなされていない。このため、国鉄制式機関車では一大画期となったD50形の傘型ピストン弁(アメリカでは一般的)や弁装置へのニッケルクロム鋼による軽量部材の採用(111号機まで)などと比較すると、振動面では退歩著しい。国鉄制式蒸気機関車の設計においては、以後も振動問題とその対策が省みられることはなかった。
  14. ^ 1 - 100号機用は平底形の車体を備える10-25形とし、65号機まではこの頃から採用が始まった代用設計の影響で台車が板台枠・固定枕梁式になった。だがこれは就役後間もなく台車に亀裂が入る等の欠陥が認められたため、1943年(昭和18年)に製造された66 - 100号機は枕ばね鋳鋼製台車を備える10-25A形に変更され、さらに戦後形では本体を船底形に変更し、台車の軸受をコロ軸受化した10-25B形となった。
  15. ^ 定置試験での測定結果によれば、缶効率は同一条件下でのC53形や、本形式のボイラ設計の基本となったD51形よりも低く、通風力の不足が指摘されている。にもかかわらず、長煙管について外部に対し「よく炙られて熱効率が高い」等と虚偽の宣伝を行う関係者もあった。
  16. ^ 本形式のボイラーは使用圧力を定格の16気圧から18気圧に将来昇圧することを念頭に置いて、缶胴部の板厚を16 mmから19 mmへ増厚して設計されたことも関連して、D51形のものと比して重量が増大していた。
  17. ^ 本形式の次に新規設計されたD52形で燃焼室が設けられたのは、戦時体制下で低品質炭の使用を強いられ、かつ牽引定数の引き上げが求められ、製作時の少々の工数の増大を甘受してでも燃焼効率を改善する必要があったためであるが、それと共に重心が後ろに偏るのを抑止することも重要な目的であった。燃焼室はC51における試験で3 %の燃焼効率の改善と煙管後端の保守の容易さから「相当経済的」と評価されており、その採用に伴うイニシャルコストの増大は、採用によって得られるランニングコストの抑制で充分回収可能であった。なお、戦後形C59では全車輪の軸重が軽くなったが、従輪は0.5 %ほど軽くなっただけであった。これは燃焼室の長さが500 mmと短かったため(D52形・C62形で1,000 mm)。
  18. ^ 列車引き出し時には重心の後方への移動が一時的に生じるため、さらに加重されることになる。そのため、タイヤの割損は発車時に発生するケースが大半を占めた。この問題については、欧州、例えばドイツなどではバーデン官有鉄道IId形(1902年製)やプロイセン官有鉄道S3/5形(1904年製)などの従輪付き高速機の黎明期から、従輪を先輪と比較してより径が大きく丈夫な車輪とする、という対策が採られていたが、本形式では戦後形も含めて通常の車輪(直径860 mm)が墨守された。設計当時、電車用で910 mm径車輪が標準部品として存在した状況で、これを採用しなかった経緯は定かではない。なお、C51形やC57形などの一般的なパシフィック機の従軸軸重は11 t前後である。
  19. ^ 工員の水準低下もあって、圧延時にスラッグが入っていた。このため高温となる天井板が圧延層ごとに熱膨張で徐々に剥がれ、パイ生地のように複数枚に分かれてしまったものであった。
  20. ^ 『世界の鉄道’68 特集●蒸機C59の一生』 朝日新聞社 1968年 pp.145 - 150 での北畠顕正(C59の直前はキハ4100040000形内燃動車の設計主任を務め、本形式の初代主任設計者となるも、すぐに交替して電機の設計に移る)の証言による。なお、1933年(昭和8年)にはC51形での現車試験で燃焼室付加が熱効率引き上げに大きな効果をもたらすことと、煙管の火室側が火床から遠ざけられ痛みが減り、保守上も好都合であることが確認され、保守方からの燃焼室採用の要望が出ていたほどであった。
  21. ^ なお、燃焼室の量産型蒸気機関車への採用は低質炭の使用を余儀なくされた戦時設計の貨物機であるD52形で、重心位置が後部に寄り過ぎるのを防ぐのも兼ねて、ようやく実現している。
  22. ^ この長煙管は本形式の設計当時、ドイツ帝国鉄道の技師長であったリヒャルト・ワグナーが06形設計時に採用するなどしており、当時のドイツでの流行に迎合した一面があったことは否定できない。ドイツの06形も長煙管が原因で失敗に終わっている。もっとも、ワグナー自身は煙管内径/煙管長=1/400を推奨しているにもかかわらず、本機では大煙管で1/555と煙管が非常に細長く、設計陣はドイツに倣ったつもりであっても、実際には直径との関係を考慮せずに煙管の長さだけを考えなしに取り入れたに過ぎない。
  23. ^ ただし実際に測定されたことはない。
  24. ^ かつて軍事輸送上山陽本線並みの軌道状態で整備され、戦後も電化までは山陽本線の補完路線として重視されていた。
  25. ^ 戦時体制下で柳井経由の複線化が進められた1944年までは山陽本線の一部であった。
  26. ^ これにより本形式の宿痾であった従台車の問題が解消された。
  27. ^ 例外として1964年(昭和39年)に高松機関区に111号機が配置されたが、これは廃車前提の車両を機関区のボイラー代用とする扱い(1964年8月31日付で廃車)であり、本線運用にはついていない。
  28. ^ 車両運用の都合下り普通列車1本のみ山陽本線経由の定期列車が残されていたほか、臨時列車等の牽引で山陽本線を走ることもあった。
  29. ^ 「安芸」は呉線内での編成両数が10両だったのに対し、「音戸」は12両であった。
  30. ^ これは糸崎機関区に配置されていたC62形の一部に常磐線電化で1967年(昭和42年)末以降平機関区から転属してきた軽軸重型が含まれ、区分なく運用されていたことに一因がある。
  31. ^ 当時はD52形が瀬野機関区に配置され、同区間での補機として運用されていた。
  32. ^ 圧縮空気で動く小型シリンダにより、自動連結器の解放テコを運転台から遠隔動作させる。
  33. ^ 川崎車輛は南満州鉄道向け車両などの製造の関係で、その特許実施権を取得していた。
  34. ^ 当然ながら、これら79・80号機での燃焼室の成功は、戦後型での燃焼室正式採用に大きな影響を与えている。
  35. ^ 高木宏之によると消煙装置はC62 40号機やD51 475号機、九州のC57形などの一部形式に取り付けられたという。

出典

  1. ^ 機関車の構造及び理論 上卷 交友社 昭和16年 pp.149 - 150
  2. ^ 出典:庄田秀「岩徳線“3匹の侍”D51/D52/C59」、交友社「鉄道ファン」1964年6月号、No.36、pp.42 - 43
  3. ^ 出典:三宅俊彦『運転史から見た呉線と急行「安芸」』ネコ・パブリッシング刊「ドキュメント感動の所在地1」2001年4月、pp.51 - 56
  4. ^ 出典:藤井浩三『呉線のC59』鉄道図書刊行会刊「日本蒸気機関車特集集成(上)」1978年5月、p206-207
  5. ^ 出典:宇田賢吉・細川延夫 「“安芸”呉線を行く」交友社「鉄道ファン」1964年6月号、No.36、pp.39 - 41
  6. ^ 出典:庄田秀「C59の限定運用設定」、交友社「鉄道ファン」1969年4月号、No.94、p.79
  7. ^ 出典:岡藤良夫「呉線でファンの要望叶う」、交友社「鉄道ファン」1970年10月号、No.113、p.142
  8. ^ 出典:白川保友・佐々木伸「呉線“電化”前夜 <その3>変貌する糸崎機関区」鉄道記録映画社「鉄道ジャーナル」1970年11月号、p.23
  9. ^ 出典:稲垣英治「45・10ダイヤ改正に伴う車両の移動」、交友社「鉄道ファン」1970年10月号、No.113、p.12
  10. ^ 出典:藤井浩三『呉線のC59』鉄道図書刊行会刊「日本蒸気機関車特集集成(上)」1978年5月、p.206


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