重爆特攻隊菊水隊との出撃
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第4航空軍の特攻に痛撃を受けたミンドロ島攻略部隊は、特攻機をかわすため陽動作戦を行い、ミンドロ島に直接向かうのではなくパラワン島に針路を向けた。第4航空軍はこの陽動作戦にひっかかり、アメリカ軍の目標はパラワン島もしくはネグロス島と誤認した。慌てた富永は第5飛行団の一〇〇式重爆撃機での全力特攻を命じた。第5飛行団の100式重爆撃機は陸軍対艦攻撃の専門部隊として、北海道で跳飛爆撃の猛訓練を積んで意気揚々とフィリピンにはせ参じていたが、他の跳飛爆撃部隊と同様に戦果を挙げること無く損失だけが増えて、当初56機あった一〇〇式重爆撃機が 12月13日には9機にまで減っていた。つい先日の12月9日にも、レイテ島のオルモック湾に来襲した連合軍上陸艦隊を7機で攻撃して、戦果もないまま2機を損失したばかりであった。今までの戦績も踏まえて、参謀長の隈部らが鈍重な重爆を特攻に出しても敵戦闘機の餌食になるだけだと反対意見を述べたが、富永は併せて60機の戦闘機を護衛に付けることを命じて作戦は強行された。富永の命令を受けた第5飛行団団長小川小二郎少将は、今までの戦歴により重爆による艦船攻撃は非常に困難であったと痛感させられており、重爆の特性を理解しない航空用法に反発したが、しかし、どうせ全滅する飛行団であれば、特攻で潔く散るのも一案と思い直して、指揮下の飛行第95戦隊と飛行第74戦隊に全力出撃を命じた。 小川は出撃する重爆隊指揮官丸山義正大尉を呼ぶと、同じ重爆撃機の特攻隊であった「富嶽隊」の攻撃失敗を例に出して「徒らに死に急ぎせず、慎重に機会を待て、戦闘機に出会ったら直ちに退避せよ」「乗員をできるだけ少なく」と指示し、丸山は「必ずご期待にそうようやります」と答えたが、重爆隊隊員の士気は極めて高く、また敵戦闘機との交戦も予期していたため、丸山は小川の指示をまもることはなく、8名の定員を1名減の7名に減らしたに止めた。小川の指示にも関わらず、丸山以下隊員らは初めから生還は考えておらず、全員遺品を整理し下着を取り替え、縛帯(救命胴衣)を脱ぎ捨てて決死の覚悟を固めると、死を覚悟しながらも冷静に作戦を検討し「一番大きな敵船を攻撃しよう。まず私が爆撃をしかけるので、前方射手は機銃を全弾撃ち込んでくれ。爆撃後、敵船を飛び越して海面スレスレを飛ぶから、今度は後部射手が機銃を全弾、撃ち込んでほしい。それでも敵船が沈まなかったら、反転して突っ込むから覚悟してもらいたい」と決めている。 重爆撃機特攻隊は「菊水隊」と命名された。「万朶隊」佐々木の戦後の主張によれば、このとき佐々木はたった1機で「菊水隊」に同行を命じられたとしており、このことは小川から丸山ら「菊水隊」の特攻隊員にも伝えられたと推測する者もいるが、小川自身の回想ではそのような事実は確認できず、また実際に丸山から出撃命令を受けた飛行第95戦隊の中村真によれば、丸山からは「それぞれ確実な方法で敵を撃沈せよ」だけの訓示があって、特に佐々木に対する言及もなく、実際に中村たちは佐々木が同行することは全く認識していなかった。 12月14日午前6時45分に飛行第95戦隊の7機の一〇〇式重爆撃機でクラーク・フィールド飛行場を離陸、その後にデルカメルン飛行場から出撃した飛行第74戦隊の2機と合流し、護衛戦闘機と合流するためマニラに向かいしばらく旋回していた。計画であれば午前7時に60機の護衛戦闘機が合流するはずであったが、同時刻になっても戦闘機の姿は見えなかったので、指揮官の丸山は「菊水隊」単独での進撃を命じた。小川は出撃前に確実に護衛戦闘機と同行するようにと念を押していたのに、「菊水隊」が単独で進撃したという知らせを聞いて沈痛な思いになったという。丸山は普段から編隊飛行にやかましく、編隊での対空戦闘を緻密にシミュレーションするような勇壮というよりは慎重な指揮官であったが、なぜ小川の指示を守らず重爆による単独進撃を決断したかは不明である。中野和彦少佐が率いる飛行第13戦隊の隼13機が護衛についたとも言われているが、隊員の中村によれば見えたのは3機の隼と偵察機1機のみで、やがてその護衛機も雲に隔てられて分離してしまい、「菊水隊」は護衛戦闘機がいない状況での進撃を余儀なくされた。佐々木の主張によれば、「菊水隊」は佐々木機と合流するためにカローカン飛行場に到達するとしばらく旋回していたが、佐々木機は離陸に失敗して滑走路外に機体が飛び出してしまい、佐々木はそのまま出撃すること無く飛行場上空で旋回している「菊水隊」に手を振って見送った。佐々木は「菊水隊」と一緒では危なかったと考えていたので、離陸に失敗してよかったと胸をなで下ろしていたと主張していたが、そのような事実は確認できず「菊水隊」がマニラ上空で待っていたのは、佐々木機ではなく護衛戦闘機であった。 「菊水隊」はミンドロ島に達する前のパナイ湾上空で、アメリカ軍戦闘機「P-47」に補足されて、戦闘隊形をとって必死に応戦したが次々と撃墜されて、「敵戦闘機に襲わる!」との悲痛な打電を最後に全滅した。第4航空軍は「菊水隊」を含むこの日の特攻機に60機の護衛機をつける計画であったが、飛行第13戦隊の隼13機となってしまったことや、飛行第13戦隊は護衛任務で3機の隼を失いながらも、肝心の菊水隊からは認識されていなかったなど、護衛機としての用をなしておらず、現場の部隊の連携の稚拙さも攻撃失敗の原因となった。「菊水隊」の全滅は、とりあえず特攻隊として出撃させればそれで事足りるとする当時の日本軍上層部の姿勢を如実に表した事象として批判されることも多く、団長の小川は、熟練の重爆搭乗員と多数の一〇〇式重爆撃機を擁してフィリピンに進出しながら、ほとんど戦果を挙げることもなく壊滅したことを「川の中州の一軒家で洪水に会い、押し流されてるような」と振り返っている。
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