遺跡の立地
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「桜木遺跡 (世田谷区)」の記事における「遺跡の立地」の解説
世田谷区は東京都内において有数の遺跡密集地帯であり、区内のほぼ全域に分布が認められる。遺跡の時代としては約30,000年前の石器製作跡を最古として、近世の大名陣屋など比較的新しいものまで、ほぼすべての時代の遺跡が存在している。世田谷区内にある300か所を超える遺跡のうち、その約半数で縄文時代遺構の存在が想定されている。とりわけ、縄文時代の遺跡についてはおよそ4,500年前の中期にあたる遺跡が数多く発見されていて、「ムラ」(集落)の変遷をたどることが可能な竪穴住居や墓壙、貯蔵穴、落とし穴などの遺構が多数確認されている。 桜木遺跡のある桜一丁目は、世田谷区の中央部に位置し、目黒川の上流域、烏山川の中流域にあたる。この付近は標高が約40メートルあり、古多摩川によって形成された3段の河岸段丘面からなる台地(武蔵野台地)である。台地上には、多摩川・目黒川・呑川の各水系に属する小さな河川の流れによって多くの谷が刻まれている。 桜木遺跡は、武蔵野段丘面の目黒台と呼ばれる部分に所在している。目黒台の台地は北側を目黒川水系の烏山川(台地の北西方面奥部を水源とする)、南側を細谷戸川(ほそやとがわ、桜三丁目に水源を持つ)という小河川に挟まれ、この2河川が合流する方向に舌状に突き出した形となっている。台地とその北側を流れる烏山川との比高差は、約5メートルである。 桜木遺跡がある段丘面は周辺の段丘面よりも浸食が進んでおらず、起伏の少ない比較的平坦な土地が広がっている。一方、桜木遺跡東側の烏山川、細谷戸川の合流点付近は、遺跡周辺では最も広い低地となっている。 遺跡の推定範囲は、東西に約400メートル、南北に約220メートル、推定の面積は約80,000平方メートルとされる。都市化の進行のために、遺跡の大部分が住宅地となっている。
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遺跡の立地
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遺跡の標高約300〜310メートル、阿武隈川の支流白石川と大梁川の合流点の大梁川のやや上流側の丘陵平坦面に立地している。
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遺跡の立地
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遺跡の標高約260-270メートル、阿武隈川の支流白石川と小梁川の合流点に形成された河岸段丘上に立地している。白石川に面する段丘崖の高さは約10メートルである。
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遺跡の立地
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石野遺跡は北硫黄島東部の海岸付近にあった、かつての集落である石野村裏手の標高44-53メートルの比較的緩やかな傾斜地にある。遺跡の北側には北硫黄島唯一の、常時水が流れる川である渋川があるが、渋川の水は硫黄や鉄分の含有量が多く飲用には適さないと見られる。渋川流域には数ヶ所から湧水が見られ、かつての石野村住民はこれらの湧水と同じ水脈の井戸を水源として利用していたと考えられる。 また石野遺跡は、島の反対側にあたる西村へ向かう道や、島の最高峰である榊ヶ峰への登山道上にある。そして石野遺跡発見のきっかけになった線刻画が刻まれた巨石は、海上からも確認が可能である。
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遺跡の立地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 22:52 UTC 版)
はさみ山遺跡(はざみ山遺跡)は、大阪府南東部の羽曳野丘陵の裾野に広がる段丘上に立地し、藤井寺市さくら町・藤井寺・野中・藤ケ丘一帯に広がっている。遺跡およびその周囲は、全体が緩やかな傾斜地となっており、国の史跡・古市古墳群が展開している。遺跡の範囲は、南北幅では、北は藤井寺市さくら町の公団住宅(現・サンヴァリエ藤井寺)付近から始まり、南は羽曳野市の墓山古墳付近におよぶ(南北約1.3キロメートル)。また東西幅では、西は岡ミサンザイ古墳と、6世紀~7世紀ごろに古市古墳群内を南北に掘られた運河ないし水路とみられる「古市大溝」に始まり、東は誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の西側周濠付近におよぶ(東西約1.2キロメートル)。 この遺跡は1965年(昭和40年)の美陵ポンプ場建設計画に伴いその存在が認知され始め、その後1974年(昭和49年)の大阪外環状線建設に伴い正式に埋蔵文化財包蔵地「はざみ山遺跡」として周知された。以後、大阪府教育委員会や大阪府文化財センター、藤井寺市教育委員会による発掘調査が続けられ、奈良・平安時代を中心に旧石器時代から古墳時代・飛鳥時代・中世・近世に至る様々な時代の遺構や遺物が検出されてきた。
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