遺跡の配置とは? わかりやすく解説

遺跡の配置

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/04 03:35 UTC 版)

アマルナ」の記事における「遺跡の配置」の解説

ナイル川東岸位置し都市遺跡北から南に通る「王の道」、現在の 'Sikhet es-Sultan' に沿って存在する王宮北部集中しており、「北の都市 (North City)」と呼ばれている。中央部には行政機関宗教施設があり、南部には住居集中していた。 北の都市 北の都市には、王族住んでいた「北の王宮 (Northern Palace)」がある。この北の王宮中央の都市の間に比較大きな住居並んでいるが、王の道から遠くなるにつれて住居小さく粗末になっている。 中央の都市 重要な儀式や行政を司る建物大部分中央の都市にある。アテン大神殿小神殿があり、宗教上の中心となっていた。また、両神殿の間に王と王族執務用の「大王宮」と「王の邸宅」があり、傾斜路相互に繋がれていた。宮殿の裏手にファラオ仕え政庁があり、そこでアマルナ文書発見された。この区域最初に完成した見られており、少なくとも2段階に分けて建設された。 南の郊外 都市南部は「南の郊外 (Southern Suburbs)」と呼ばれている。大臣将軍アテン大祭司など有力な貴族の家が多くあった。また、彫刻家トトメス工房もあり、1912年有名なネフェルティティの胸像』がそこで見つかった。 さらに南には Kom el-Nana と呼ばれる遺構があり、太陽神殿英語版)と見られている。その隣には宮殿または太陽神殿とされる Maru-Aten があり、元々はアクエンアテン王妃キヤ(en)のために建設されたが、キヤ亡くなったため、娘メリトアテンのための建物として作りかえられた。 周辺部 都市境界碑(Boundary Stelae)で取り囲まれており(個々の碑はナイル両岸断崖掘られ長方形のものである)、アケトアテン建設について記されていて、アケトアテンについての第一級情報源となっている。 アケトアテンから東に向かうと狭い谷があり、断崖隠されるように王族ネクロポリスがある。完成した墓は1つだけで、名前のわからない王妃1人埋葬されていた。アクエンアテンの墓は未完成だった本人とその次女メケトアテンのために急いで使われたと見られている。 王族の墓の南北断崖アケトアテン亡くなった高官の墓がある。

※この「遺跡の配置」の解説は、「アマルナ」の解説の一部です。
「遺跡の配置」を含む「アマルナ」の記事については、「アマルナ」の概要を参照ください。

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