遺跡の発見と調査の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 04:02 UTC 版)
綾瀬市では、1987年度(昭和62年度)より市史の編纂事業を本格化させた。綾瀬市史を編纂する中で、「別編考古」を刊行することが決まり、編集作業を進めていくうちに大きな問題として浮上したのが、弥生時代についての記述であった。それはこの当時、綾瀬市を含む相模川東岸地域で知られていた弥生時代の遺跡は数少なく、綾瀬市内では数ヶ所から弥生土器が採集されていたに過ぎなかった。綾瀬市内の弥生時代の状況がほとんどわからないままでは市史を編纂する中で支障となると判断され、1987年度(昭和62年度)に実施していた綾瀬市内の遺跡分布調査を参考にしながら、市史を編纂するための資料蒐集を目的とした弥生時代の遺跡発掘が計画されるに至った。 1989年(平成元年)5月に調査候補地数ヵ所で現地調査を行った結果、綾瀬市南西端の吉岡字神崎のNo.78遺跡が発掘調査地に決定した。No.78遺跡が選ばれた理由としては、1987年度(昭和62年度)に行われた遺跡分布調査の結果、弥生時代後期の土器が採集されたことと、目久尻川流域の台地先端部という立地が、周辺で確認されていた弥生時代の遺跡の立地条件から見て、一番遺跡が存在する可能性が高いと判断されたことによる。 発掘調査は1989年(平成元年)7月から12月まで行われ、その結果として静岡県西部から愛知県東部が起源と考えられる多くの土器や環濠集落が検出され、当初の予想を遥かに越える大きな成果を挙げた。 その後、1993年(平成5年)と1994年(平成6年)には、環濠の南側外部に当たる場所で、住宅の建設に伴う緊急調査が実施されたが、遺構や遺物は検出されなかった。1999年(平成11年)には環濠の南部と東部で、配水管改良工事に伴う調査が実施され、土器が検出された。 2008年(平成20年)、綾瀬市は神崎遺跡を国の史跡に指定するよう、国と神奈川県に協議を申し入れた。その中で1989年(平成元年)の調査で、十分に調査が行われなかった環濠の南部と環濠の北側外部について、改めて調査を行うこととなった。2009年(平成21年)3月、環濠の南部にトレンチ調査が実施され、弥生時代の住居址と土器が検出された。続けて2009年度(平成21年度)には環濠の北側外部でトレンチ調査が実施されたが、土器がわずかに検出されたのみで遺構は検出されなかった。 なお、神崎遺跡はこれまでのところ全体の1-2割程度しか発掘が行われていない。神崎遺跡は数軒の住宅以外は畑地となっていて、遺跡全体の遺存状況は良好と考えられる。今後の発掘技術や分析技術の進歩を見据え、神崎遺跡は現況のままの保存が図られている。
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