大島畠田遺跡とは? わかりやすく解説

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大島畠田遺跡

名称: 大島畠田遺跡
ふりがな おおしまはたけだいせき
種別 史跡
種別2:
都道府県 宮崎県
市区町村 都城市金田町
管理団体
指定年月日 2002.03.19(平成14.03.19)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日 平成16.02.27
解説文: 大島畠田遺跡は,宮崎県東南部都城盆地にある平安時代有力者層の居宅跡である。盆地主要河川である大淀川とその支流庄内川合流点付近氾濫源面した比高1.5mの河岸段丘縁辺立地する平成10年度・11年度に緑資源公団による圃場整備事業に伴い宮崎県埋蔵文化財センター発掘調査実施したところ,貴重な遺跡であることが判明したため,遺跡地を事業対象から除外して現状保存を図ることとなった
 居宅跡は、東西70m,南北80m以上の規模をもつ。西辺は氾濫原接す段丘崖,東辺は自然地形である東西30m・南北40m,深さ1m内外大きな窪み区画となる。南辺は溝や柵などの区画施設があり,これに門が取り付く北辺調査範囲内では不明である。遺構には掘立柱建物35棟のほか,池状遺構・溝・門などがある。遺構建物や柵などの方向からみて,4から5時期分かれるものと考えられる主屋大型南北棟の掘立柱建物で,桁行5間・梁間2間の身舎四面廂が付き,さらにその外側に縁あるいは軒に伴うと推定される小さな柱穴がある。身舎と廂の平面積は183m2となる大型建物であるが,その外側まで含めると約250m2となる。この主屋南側に池状遺構がある。この遺構当初不整形窪み掘られた後,幅2.5mの「コ」の字状の溝が掘り直され,その中央が1辺約7.5mの中島状となる。そこには大型掘形をもつ1間四方掘立柱建物配置されている。この建物主屋方位同じくし,同時に存在したものと考えられる。これらのほかにも桁行2間から4間の掘立柱建物数多く存在する遺跡南側地形低くなり,台地裾との間の谷には,平安時代水田跡が見つかっている。
 出土遺物には,越州窯青磁白磁などの中国陶磁器京都産を中心とした緑釉陶器東海産の灰釉陶器がかなり含まれている。これらの遺物年代からみて遺跡中心年代9世紀後半から10世紀前半考えられる
 このように,本遺跡大型建物主屋とし,区画施設や池状遺構備えた有力者居宅であり,その居住者地域において卓越した経済力保持していたことを示唆するとりわけ大河川の合流点営まれ現在の河道まで約300mの距離にあるという遺跡の立地は,河川交通関係した性格うかがわせる平安時代のこの時期律令体制変容し,地方においては富豪層」が台頭するとされている。当遺跡はこの時期日向国内の状況具体的に示すものとして重要であり,史跡指定し保存図ろうとするものである
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史跡:  大岩日石寺石仏  大峯奥駈道  大峰山寺境内  大島畠田遺跡  大川内鍋島窯跡  大平一里塚  大庭鶏塚

大島畠田遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/24 14:42 UTC 版)

大島畠田
遺跡
位置

大島畠田遺跡(おおしまはたけだいせき)は、宮崎県都城市金田町にある平安時代の集落遺跡。国の史跡に指定されている(指定名称は「大島畠田遺跡 附郡元西原遺跡」)。

史跡指定の経緯

本遺跡所在地では、緑資源公団による圃場整備事業が計画されており、それに先立って1994年から翌年にかけて試掘調査を実施したところ、古代遺跡の存在が確認された。その後1998年に再度確認調査が実施された。これを受けて、1999年、宮崎県教育委員会を事業主体として、宮崎県埋蔵文化財センターによる本格的な発掘調査が実施された。その結果、この遺跡は大型建物を中心とする、平安時代の地域の有力者の邸宅跡であることが判明。県教委は緑資源公団と協議し、遺跡を含む2.5ヘクタールを圃場整備事業区域から除外することとなった。遺跡は、2002年3月19日に19444.25平方メートルが国の史跡に指定され、2004年2月27日に5,550.77平方メートルが追加指定されている[1]

遺跡の位置

遺跡の所在地は、都城盆地のほぼ中央、大淀川と庄内川の合流点付近に形成された沖積地の微高地である。標高は133メートル前後、西に位置する大淀川の氾濫原との比高差は1.5メートルほどである[2]

屋敷地は確認されている範囲で、南北65メートル、東西が60メートル+αにわたっている。北から南へ下る傾斜面の微高地の北端、周囲より高いところに掘立柱の大型建物、その南に池状遺構があり、敷地南端は門、柵列、区画溝で区画されていた。敷地の東は南北45メートル、東西30メートル、深さ1.4メートルの、自然地形の窪地がある。遺構はこの窪地に平行して存在し、窪地をまたぐ遺構がないことから、東側はこの窪地が境をなしていたことがわかる。敷地西端は削平されていて不明だが、西方にさほど大きくは広がっていなかったとみられる。敷地北端はこれまでの調査では明確になっていない[3]

遺構

遺構は、掘立柱建物跡が35棟(北端の大型建物(SB1)と、池の中島に建つ方一間の建物(SB35)を含む)、土坑が調査されたものだけで25か所、溝状遺構が30数か所、道状遺構が1か所、前述の池状遺構が1か所、前述の南面の区画施設(門1、区画溝1、柵列2)などが確認されている。掘立柱建物跡は、新旧の建物跡が重複している箇所があり、重複の様子や建物の中心軸の傾き具合などから、4期ないし5期に分かれ、早いものは9世紀後半から10世紀前半、時代の下るものは12世紀前後の建物跡である[4]

大型建物は、桁行5間、梁間2間の身舎の外側に、四面庇をめぐらし、庇のさらに外側には径の小さい柱穴の列があって、これは孫庇または縁を設けた跡とみられる。実長は身舎部分が11.9×5.6メートル、孫庇(縁)まで含めると20.3×14.3メートル、面積290平方メートルの規模である。身舎の柱穴は径1メートルを超えている[5]

大型建物の南にある池状遺構については、人工的に掘ったものではあるが、池だったという確証はなく、科学的調査の結果では、雨天のとき以外は水はなかった可能性が指摘されている。東西19メートル、南北21メートルの不整方形で、中央部に地山を掘り残し、中島のようになっていた。河原石が多数出土することから、中島は石敷きだったとみられる。この池が埋没した後、元の中島を囲むように、「コ」の字形の溝が掘り直されている。これは一辺10メートル、幅2.5メートルで、大型建物に面した北側が開いた「コ」の字形に掘られていた。元の中島の部分には方一間の掘立柱建物があり、堂か社のような信仰施設であったと推定される[6][7]

遺跡からは土師器須恵器のほか、緑釉陶器灰釉陶器、越州窯系青磁白磁などが多数出土しており、「春」「泉」などの文字が書かれた墨書土器もある[8]

遺跡の特色

当遺跡は、南九州では最大規模の大型建物の存在からみて、この地方の有力者の邸宅であったとみられる。敷地南端に立っていた門は、主柱の前後に控柱2本ずつを立てる四脚門という形式だが、この形式の門を建てられるのは、平安京では大臣以上に限られていた。出土品には施釉陶器や貿易陶磁器が多数含まれるが。これは当時一般の人々が手にすることのできなかったものである。土師器の坏も多数出土しているが、これらはおもに酒宴で用いられ、宴が終わった後には廃棄されていたもので、大人数を招いての宴会が開かれていたことが想像される[9]

この邸宅が営まれた9世紀後半は、律令国家の変容とともに、各地で在地の豪族が強大化する時期にあたっている。当遺跡は平安時代の南九州における、在地の有力者の邸宅の状況を具体的に示すものとして貴重である[7]

文化財

国の史跡

  • 大島畠田遺跡 附郡元西原遺跡
    2002年(平成14年)3月19日指定、2004年(平成16年)2月27日に史跡範囲の追加指定。
    2024年(令和6年)10月11日、郡元西原遺跡の追加指定のうえで「大島畠田遺跡 附 郡元西原遺跡」への名称変更[10][11]

脚注

参考文献

  • 宮崎県埋蔵文化財センター『宮崎県埋蔵文化財センター発掘調査報告書178:大島畠田遺跡』宮崎県埋蔵文化財センター、2008年。 
全国遺跡報告総覧(奈良文化財研究所サイト)からダウンロード可。
  • 宮崎県 編『宮崎県文化講座研究紀要第44輯』宮崎県、2017年。 
    • 栗山葉子『大島畠田遺跡から島津荘へ』2017年、47-68頁。 
宮崎県図書館サイトからダウンロード可。

座標: 北緯31度46分18秒 東経131度04分31秒 / 北緯31.77167度 東経131.07528度 / 31.77167; 131.07528



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