史跡指定の経緯
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現地からは鋳型の材料となる硅砂が産出しており、遺跡の一部は名古屋市の採掘業者である瓢屋(ひさごや)が採掘権を持ち、1963年から「弥生砂」として硅砂の採掘を行っていた。市の調査が始まってからは業者も採掘を控えていたが、1969年3月8日夜から翌朝にかけてブルドーザー10台を投入し、遺跡を破壊して採掘を強行した。これにより未調査の南部は完全に破壊された。瓢屋社長の堀江静夫によると、文化財に指定されると採掘ができなくなり、補償も期待できないので採取に踏み切ったという。ベトナム戦争の影響によりベトナム産硅砂の輸入が止まった事も背景にあると見られる。その後も業者は採掘を強行していたが、事件から3日後の3月11日に至り、遺跡の一部が緊急に国の史跡として指定され、業者は破壊ができなくなった。瓢屋は史跡指定の取り消しを求めて同年6月に訴訟を起こしたが、1981年に国と和解した。
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史跡指定の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 03:58 UTC 版)
本遺跡所在地では、緑資源公団による圃場整備事業が計画されており、それに先立って1994年から翌年にかけて試掘調査を実施したところ、古代遺跡の存在が確認された。その後1998年に再度確認調査が実施された。これを受けて、1999年、宮崎県教育委員会を事業主体として、宮崎県埋蔵文化財センターによる本格的発掘調査が実施された。その結果、この遺跡は大型建物を中心とする、平安時代の地域の有力者の邸宅跡であることが判明。県教委は緑資源公団と協議し、遺跡を含む2.5ヘクタールを圃場整備事業区域から除外することとなった。遺跡は、2002年3月19日に19444.25平方メートルが国の史跡に指定され、2004年2月27日に5,550.77平方メートルが追加指定されている。
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