遺産、翻訳、解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 14:54 UTC 版)
「古代エジプト文学」の記事における「遺産、翻訳、解釈」の解説
紀元1世紀にコプト人がキリスト教に改宗すると、そのコプト正教会文学は王朝時代およびヘレニズム時代の文学的伝統とは切り離された。それでもなお、学者たちは古代エジプト文学が、恐らくは口承の形で、ギリシア文学とアラビア文学に影響を与えたであろうと推測している。物語『ヨッパの占領(英語版)』で籠に隠れてヤッファに忍び込み街を攻略したエジプトの戦士たちと、ホメーロスの『イーリアス』でミケーネのギリシア人たちがトロイアの木馬に隠れてトロイアに潜入した話の間には平行するものがある。『ヨッパの占領』はまたアラビアの『千夜一夜物語』のアリババの物語とも比較される。『シンドバッド』は王朝時代の『難破した水夫の物語』から着想を得たものではないかと推測されている。エジプト文学の作品の一部は古代世界の学者たちによって注解された。例えば、ユダヤ人のローマ歴史家フラウィウス・ヨセフス(紀元37-100年頃)はマネトによる歴史的テクストを引用し注釈を加えた。 現在知られている中で最も新しい古代エジプトのヒエログリフの碑文はフィラエ神殿で発見されたもので、テオドシウス1世治世下(紀元379-395年)、西暦394年のものである。紀元4世紀に、ギリシア化したエジプト人のホラポロは200近くものエジプトのヒエログリフの調査を集成し、その意味するところの解釈を示したが、ホラポロの理解は限られたもので、各ヒエログリフの音声的な用法には気付いていなかった。1415年にクリストフォロ・ブオンデルモンティ(英語版)がアンドロス島でこれを入手し、この調査は再び知られるようになった。アタナシウス・キルヒャー(1601-1680)はコプト語が古代エジプト語の直系の言語学的子孫であることに気付いた最初のヨーロッパ人であった。キルヒャーは『エジプトのオイディプス(英語版)』において、象形的な推測に基づいたものではあったが、エジプトのヒエログリフの意味を解釈する西洋で初めての計画的な試みを行った。 1799年になり、エジプト・シリア戦役でナポレオンにより2言語3書記体系(エジプト語ヒエログリフ、デモティック、及びギリシア語)の銘があるロゼッタ・ストーンが発見されて初めて、近現代の学者は古代エジプト文学を読解できるようになった。1822年には、ジャン=フランソワ・シャンポリオン(1790-1832)がロゼッタ・ストーンのヒエログリフを翻訳する最初の努力を行った。19世紀におけるエジプト文学翻訳の最初期の努力は聖書上の出来事(英語版)を裏付ける試みとしてなされた。 1970年代以前では、古代エジプト文学は(現代文学の諸分野との類似点を有しているとはいえ)、古代の社会政治体制に影響されない独立した言説ではなかったというのが学界でのコンセンサスであった。しかしながら、1970年代以降、この理論に疑問を投げかける歴史家や文学研究者が増えている。1970年代以前の学者たちは古代エジプト文学の諸作品を古代社会の状況を正確に反映した有望な歴史的史料として取り扱っていたが、現在ではこのアプローチにも警鐘が鳴らされている。学者たちは個々の文学作品の研究に多角的な解釈学のアプローチを採ることが多くなりつつあり、様式や内容だけでなくその文化的・社会的・歴史的な文脈も考慮に入れられるようになった。個々の作品は、古代エジプト文学の言説の主要な特徴を再構築するためのケーススタディとして用いられうるのである。
※この「遺産、翻訳、解釈」の解説は、「古代エジプト文学」の解説の一部です。
「遺産、翻訳、解釈」を含む「古代エジプト文学」の記事については、「古代エジプト文学」の概要を参照ください。
- 遺産、翻訳、解釈のページへのリンク