遺産、撮影した人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/25 10:13 UTC 版)
「マシュー・ブレイディ」の記事における「遺産、撮影した人物」の解説
ブレイディは、第6代アメリカ合衆国大統領ジョン・クインシー・アダムズから、第25代ウィリアム・マッキンリーまで19人の大統領のうち18人の写真を撮影した。例外は第9代のウィリアム・ハリソンであり、ブレイディがその写真収集を始める3年前に、在任のままで死亡していた。 マシュー・ブレイディのアシスタントとなった写真家(アレクサンダー・ガードナー、ティモシー・オサリバンなど)が撮影した数多い写真は、南北戦争の視覚史料として最も重要なものとなり、歴史家達や大衆にとっては、その時代を理解しやすくする助けになった。 ブレイディは戦中の多くの高級将校の写真を撮影した。例えば北軍では、ユリシーズ・グラント、ナサニエル・バンクス、ドン・カルロス・ビューエル、アンブローズ・バーンサイド、ベンジャミン・フランクリン・バトラー、ジョシュア・チェンバレン、ジョージ・アームストロング・カスター、デヴィッド・ファラガット、ジョン・ギボン、ウィンフィールド・スコット・ハンコック、サミュエル・P・ハインツェルマン、ジョセフ・フッカー、オリバー・O・ハワード、デイビッド・ハンター、ジョン・A・ローガン、アービン・マクドウェル、ジョージ・マクレラン、ジェイムズ・マクファーソン、ジョージ・ミード、モンゴメリー・メグズ、デイビッド・ディクソン・ポーター、ウィリアム・ローズクランズ、ジョン・マカリスター・スコフィールド、ウィリアム・シャーマン、ダニエル・シックルズ、ヘンリー・W・スローカム、ジョージ・ストーンマン、エドウィン・サムナー、ジョージ・ヘンリー・トーマス、エモリー・アプトン、ジェイムズ・ワズワース、ルー・ウォーレス、他を撮影した。 南軍側では、ジェファーソン・デイヴィス、P・G・T・ボーリガード、ストーンウォール・ジャクソン、ジェイムズ・ロングストリート、ライアンズ卿、ジェイムズ・ヘンリー・ハモンド、およびロバート・E・リーがいた。リーについて、ブレイディが最初に撮影したのはアメリカ陸軍の中佐のときであり、戦後、バージニア州リッチモンドで最後の写真も撮影した。 エイブラハム・リンカーン大統領は多くの機会に撮影した。その写真は5ドル札やリンカーン・セント(1セント硬貨)のデザインに使われた。リンカーンの写真の1つは、アメリカン・バンクノート社が1869年の90セント・リンカーン切手の版画のためのモデルとして使った。 ブレイディは報道写真の父として、その位置づけが認められている。「クレジットライン」を入れることではパイオニアになったとも考えられている。そのギャラリーで制作されたどの写真にも「ブレイディ撮影」と書かれている。しかし、ブレイディは特に目立つ主題のみを直接扱ったのであり、多くの肖像写真は別の者が撮影した。 ブレイディはおそらく19世紀のアメリカ合衆国で最もよく知られた写真家として、肖像写真家によって具体的に使われた工場製造の、この時代の重く特殊化されたエンド・テーブルにその名前が付けられた。19世紀半ばの「ブレイディ・スタンド」は通常、安定化させるために基礎部分に重い鋳鉄を使っており、これに高さを調節できるパイプ製の柱を加え、肖像写真のモデルのアームレストとして使うか(フルに伸ばして通常のテーブル表面よりも支持用付属具に取り付けられる)、首の支えとして使う2通りの用途があった。首の支えとは、写真術の初期に長い露出時間を要したので、その間にモデルの立ち姿勢を支えておく必要があったためだった。「ブレイディ・スタンド」はスタジオ装置の商売道具について便利な言葉ではあったが、1855年頃に発明されたこのスタンドとブレイディ自身に直接の関係は無いことが分かっている。 ブレイディとそのスタジオは7,000枚以上の写真を制作し、その大半はそれぞれ2枚のネガがあった。その1組は「異常なほどの苦難の時を経た後に」アメリカ合衆国政府の所有物になった。ブレイディの持ち分の1組は、1870年代に、写真材料の代価支払いのために、ニューヨーク市のE. & H. T. アンソニー・アンド・カンパニーに渡された。それらは10年間「あちこちと場所を移された」後、合衆国下院議員ジョン・C・テイラーが屋根裏部屋で見つけて購入した。このときから、オードウェイ・ランド収集品の屋台骨となり、1895年、ブレイディ自身はそれらがどうなっているのか何も分かっていなかった。その多くは壊れ、紛失し、火事で焼けた。様々な所有者の手に渡った後、エドワード・ベイリー・イートンが発見して喜び、1912年に出版した『南北戦争の写真による歴史』に掲載された収集写真の中核となり、その重要さを訴えることになった。 失われた写真の幾らかについて、ケン・バーンズが1990年に制作したドキュメンタリー映画『南北戦争』の最後のエピソードで言及されている。バーンズは、ガラス原版のネガは庭師に売られることが多く、それは写真のためではなく、温室や冷床につかわれるガラスそのもののためだったと言っている。終戦後の時代に、日光によって緩りとネガを消し去り、失われていった。 オクラホマ州タルサ市の設立者W・テイト・ブレイディについて、同市の通りや地区にその名前がつけられていたが、ブレイディの人種差別の歴史に関してかなりの議論が続いた後の2013年8月15日、タルサ市市政委員会がブレイディ通りを、テイト・ブレイディではなくマシュー・ブレイディの栄誉を称えて名付けることを票決した。
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