選挙の放棄とゲリラ戦の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 07:04 UTC 版)
「アルジェリア内戦」の記事における「選挙の放棄とゲリラ戦の開始」の解説
イスラム救国戦線が多数を占めた地域 イスラム救国戦線が50%を占めた地域 イスラム救国戦線が多数を占めなかった地域 決定できず 有効なデータなし 1991年のアルジェリア議会の各州でのイスラム救国戦線の議席配分の状況。イスラム救国戦線が人口密集地域を制していることがわかる。 軍にはこの結果は容認しがたいものであった。圧倒的な支持を得ていたイスラム救国戦線は、pouvoirの統治を非愛国的で旧宗主国のフランス的であり、財政的にも腐敗していると非難した。さらに、アメリカ合衆国の国務長官エドワード・ジェレジャンが「一人に、一票、一回だけ」と話したことのように、イスラム救国戦線の指導部内で望ましい民主主義についての考え方が分かれていることを危惧する者もいた。 1992年の1月11日、軍は選挙のプロセスを取りやめシャドリ・ベンジェディド大統領を辞職させたうえで追放し、無所属の軍人ムハンマド・ブーディアフを大統領に就任させた。しかし3月29日に彼はボディガードの一人 L.ブーマアラフィー中尉に暗殺された。この暗殺事件は1995年に秘密裁判で判決が言い渡された。判決は実行されなかった。それゆえ、イスラム救国戦線のメンバーの多くが逮捕された。その数は軍の記録によれば5000人ほどでありイスラム救国戦線によれば3万人である、逮捕者には アブドゥルカードゥル・ハシャニも含まれている。監獄は収容に不十分なスペースであり、サハラ砂漠に収容所が設置された。あごひげを生やした男たちはイスラム救国軍のシンパとして逮捕されないように、彼らは収容者の建物から離れるのを恐れた。 緊急事態宣言がなされ、多くの通常の憲法上の権利が停止された。発生した抗議運動の全部が抑圧され、アムネスティ・インターナショナルのような人権組織は、政府が拷問の使用と、容疑者の礼状あるいは裁判なしでの勾留が頻繁に行われていることを報告した。3月4日に政府は公式にイスラム救国戦線を解散させた。 自由が維持されたイスラム救国戦線のわずかな活動家の多くが、これにたいし宣戦布告を行った。国の広範において、残留していたイスラム救国戦線の活動家は自分たちとはラジカルすぎるイスラム主義者に従い、使用できるあらゆる兵器をとり決起し、ゲリラ兵となった。彼らの最初の治安組織への攻撃はクーデターから1週間のちに始まり(ゲマル事件は数えない)、兵士と警官は急速に狙われるようになった。 内戦当初には、ゲリラ兵はほぼもっぱらアルジェリア北部の山岳地域を拠点としていたので、森林と茂みの覆いはゲリラ戦には適したものであり、都市の特定の地域では、つまり人口が少ないが石油が豊かなサハラ地域は内戦の期間中はほとんど平穏なままであった。これは政府の資金源である石油の輸出には全く影響を受けていなかったことを意味する。 緊張状態に経済が加わった。その年、長年続いた食糧への助成金のほとんどが終了し、経済はさらに大きく崩壊した。無傷らしいブーディアフに希望が向けられたが、6月下旬彼自身の警備員の弾丸に倒れすぐに希望は打ち砕かれた。その後まもなくアバッシ・マダニとアリ・ベンハジに懲役12年が宣告された。 8月26日までに一部のゲリラが政府と同じように市民を標的にし始めたことが明らかになった。ウアリ・ブーメディアン空港への爆撃では9人が死亡し128人が負傷した。FISはほかの主要政党とともに爆撃を非難したが、FISのゲリラへの影響力には限界があった。 当初の戦闘は、過激な小集団タクフィル・ワル・ヒジュラ とアフガン帰りの戦士によって率いられたものであった。しかし、最初に現れた大規模な武力運動はクーデター後にすぐにはじまった、イスラム武装運動(MIA)であった。この集団は元戦士のアブデルカダル・シェブティに率いられており、彼は選挙期間中はFISから距離をおいていた年季の入ったイスラム主義者であった。 1992年2月、元戦士、アフガン帰り、元FISの秘書長のサウド・メクルフィがイスラム国家のための運動 (MEI)を設立した。 全体的なシェブティの指導体制を受諾し、さまざまな集団が統合のための会議を催した。9月1日、タメスギダにて、シェブティは運動の規律の欠如に関して懸念を表明し、特にアルジェリア空港への攻撃を憂慮した。この攻撃は彼は容認していなかったし、支援を渋っていたものである。タクフィル・ワル・ヒジュラと「アフガン帰り(the Afghans)」 (ヌールディーン・セディキの指導)MIAに合流することで一致した。しかし会合は特殊部隊によって妨害された。この特殊部隊はあらゆる会合を妨害してきた疑惑あるものであった。 秘密の機関紙とMIAのラジオ局によってFIS自身はアンダーグラウンドのネットワークを作り、1992年から海外から公式の表明文をだすようになった。しかし、この時点でFISでのゲリラ運動の意見はさまざま入り乱れていた。多くのものにFISが支援されていた時、「アフガン帰り」に率いられた主要な党派は彼らを非イスラム主義的活動をする政治的集団を見なした。したがってFISの表明を拒否した。
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