運河の歴史
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イタリア語のcanale(複数形canali)は、運河、水路、送水管、溝などを意味する。火星についてcanaleという単語を最初に用いた人物は、1858年のアンジェロ・セッキであった。もっとも彼は直線構造は見ておらず、もっと大きな地形に使っている。たとえばのちに「大シルチス台地」と呼ばれるようになる地形に対して「Canale Atlantico」という名を用いた。 火星の運河という考えが多くの人々によって受け容れられたのは、かならずしも奇妙ではない。19世紀後半の時点で、天文観測は写真無しでなされていた。当時の天文学者たちは、いく時間も望遠鏡ごしに星々を見つめ、像が明瞭になる瞬間を待ち、そしてそのとき見えた物の絵を描かなければならなかった。彼らはやや暗かったりやや明るかったりするアルベド地形(大シルチスのような)をみて、それが海や大陸であると信じていたのである。彼らはまた、火星には比較的しっかりした大気があると信じていた。彼らは火星の自転周期や地軸の傾きが地球とほぼ同じことを知っており、これは天文学的および気象学的な意味で複数の季節があることを意味した。季節の変化に伴って火星の極冠が収縮したり拡大したりすることを観測することもできた。火星の生命が天文学者たちによって仮定されたのは、彼らが地表の特徴の変化を、植物の季節的な成長に因ると解釈したためである。しかしながら、1920年代後半までに、火星はたいへん乾燥していて大気圧はたいへん低いということが解った。 その上19世紀後半は地球上で大運河が建設されつつある時期であった。たとえば、スエズ運河は1869年に完成し、そしてパナマ運河を建設しようとするフランスの試みは1880年に始まった。天文学者たちが同様な計画が火星で遂行されつつあると考えたのは自然である。1889年、天文学者チャールズ・ヤングは、スキアパレッリの1877年の運河の発見は1881年に確認されたと報告したが、ただし新しい運河が、以前になかったところに現われていて、その起源に関する「たいへん重要かつ当惑させられる」問題を生じさせた。 1892年の好条件の衝のあいだに、ウィリアム・ヘンリー・ピッカリングは、無数の小さい円形の黒い点が「運河」("canals")のすべての交点あるいは出発点で生じているのを観測した。これらのうち多くはスキアパレッリに大きな暗い斑点として見えており、海あるいは湖と呼ばれた物であった。しかしピッカリングの天文台は標高約2400メートルに所在するペルーのアレキパにあり、その大気の条件は望遠鏡の口径を2倍にすることに匹敵するというのがピッカリングの意見であった。それらはまもなく他の観測者らによって、とりわけローウェルによって見つけられた。 1892年および1894年の衝のあいだに、季節的な色の変化が報告された。極の雪が溶けるにつれ、隣接する海が溢れて熱帯地方まで広がるように見え、そしてしばしば明白に緑色を帯びているように見えた。スキアパレッリのcanaliは本当に知的存在によって作られた灌漑運河であるという考えが、ローウェルと他の数名によってまず提唱され、それから唯一の理解し得る説明として採用された。火星の運河に関する新聞と雑誌の記事が大衆の興味をかき立てた。 1894年、火星に海は少しも存在しないのではないかと疑われ始めた。最高の条件下で、これらの「海」と思われるものは全く一様性を失っているように見えたし、その外見は、大きな高みから見られる、尾根、裂け目、そして峡谷が刻まれた山岳地帯のものであった。こうした疑念はすぐに確信に変わり、今では火星の表面には恒常的な水が存在しないということがあまねく合意されている。
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運河の歴史
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橋の下を通る運河にもまたエピソードがある。運河の建設は1870年に始まったが、ダルースの対岸、ウィスコンシン州側のスペリオルにとってはこの運河の建設は一大事であった。スペリオル市当局は連邦裁判所に運河建設の中止を訴えるほどであった。1871年のある週末、運河建設に対して法廷による禁止命令が出て、これに対抗してダルース市当局によって有志50人が運河建設予定地に派遣された。派遣された有志隊員たちは週明けの月曜日に幅9メートルの運河を開削することに成功し、禁止命令が有名無実のものとなった。運河が建設される前にその土地を所有していたのはウィルヘルム・ボーイングであった。運河を歓迎しなかったボーイングは、運河を経由してダルース港に入ろうとする船舶を止めようとした。やがてボーイングは諦め、遠くワシントン州シアトルに移住した。ウィルヘルムの息子、ウィリアム・ボーイングは、シアトルの地で後に世界有数の航空機メーカーとなるボーイングを創立した。
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