近代美術への非難
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:54 UTC 版)
しかしこうした活発なドイツの美術活動は大きな批判も受けていた。伝統的な美術の範囲から逸脱していることへの反発もさることながら、彼らの中にユダヤ人や東欧人が含まれていることが非難され、またユダヤ人やボルシェビキから支援を受けているドイツ民族の敵であるという非難もあった。表現主義も新即物主義も、どちらもゆがんだ形や色彩で敗戦後ドイツ社会の負の部分をことさら取り上げ、ドイツの社会や軍人や女性を愚弄・嘲弄し、暴力的な色彩や形態で見る者の精神を損なうものだとして批判を受けた。またバウハウスは内部における表現主義と合理主義の路線争いのほか、ドイツ共産党やユダヤ=ボリシェヴィキの手先として右翼からの攻撃を受けたことをきっかけに、1925年にヴァイマルを去り、より進歩的な街だったデッサウに移転を強いられる。 そして英雄らしさや軍人らしさなど「ドイツの価値観」にそぐわない芸術のすべて(印象派、表現主義、ダダイスム、合理主義など、ほぼすべての近代美術や近代の音楽・建築など)は、ドイツ文化・社会を堕落させるコミンテルンの陰謀の道具である「文化ボルシェヴィズム」として、右派勢力からの攻撃を受けた。ことにアドルフ・ヒトラーは19世紀半ば以降の芸術を理解せず印象派すら彼の理解を超えており、特に20世紀に入ってからのダダイスムやキュビズムを、狂気であり堕落であり病気であると呼んで嫌悪し、これらはボルシェヴィズムの公認芸術である、と著書『我が闘争』で非難した。彼は1910年までのドイツ芸術の水準の高さを賛美する一方でそれ以後に進んだ「退廃」を嘆いており、1925年にスケッチブックに残したメモでは、かつて青年時代のヒトラー自身を窒息させ芸術への道から締め出したはずのアカデミズムを体現するような、19世紀の写実主義的な作家を中心とした「ドイツ国立美術館」の構想を描いている。 近代美術が右派や一般市民から非難を浴びた実例には次のようなものがある。彫刻家エルンスト・バルラハは第一次大戦の戦没者記念像を作り、その一つは1920年代末に政権にあった社会民主党により、1929年マクデブルクに設置されたが(現在はマクデブルク大聖堂に安置中)、これは市民から大きな非難を浴びた。この像は簡略化された人物表現を特徴としている。一本の十字架を支えて屹立している3人の兵士、うち両側の二人は防寒着やヘルメットで固い表情を隠し、中央の人物は顔を前に向け毅然と立っているが、その印象は戦友の死を悼んで静かな悲しみが漂っている。十字架の下にはヘルメットをかぶった兵士がいるがすでに白骨化しており、両側には耳を両手で覆って眼をふさぐ父親と、ベールで顔を覆い両手を握り締める母親がうずくまっている。好意的な意見では、高貴さと戦死者に対する哀悼が伝わる精神性の高い彫刻だというものもあったが、市民の多くは猛反発した。「なぜ国のために遠い戦地で英雄的に戦って死んでいった若者がこのように虚ろに見えるのか」「気が重くなる。青少年に悪影響を与える」「ドイツ軍人を愚弄している」 さらに「人物の何人かはゲルマン民族に見えない。程度の低いスラブ・モンゴルの特徴があるのではないか」というようなものもあった。市民やメディアの多くは英雄らしさより大戦の悲惨さを強調した像に対し、自らやドイツ自体が否定されたような印象を受けて像を攻撃した。その手段として、人種的特徴も利用された。バルラハの作品はマクデブルク戦没者記念像やハンブルク市戦没者記念碑など、戦争の記念碑や公共空間に置かれたものが多かったため、特に世論を刺激した。
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