近代自由主義の解釈
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近代に入ってから、旧約聖書とイスラエルの歴史に関する学術的な研究がすすむと『列王記下』の終盤と『歴代誌』34章であらわれたヨシヤ王治下での宗教改革と『申命記』を結びつける説が18世紀初頭W・M・L・デ・ヴェッテにより初めて唱えられた。その部分の記述によれば紀元前621年、ヨシヤ王は聖所から偶像崇拝や異教の影響を排除した。その過程で大祭司ヒルキヤの手によって律法の失われた書物が発見されたというのである。ヒルキヤはヨシヤ王にこの書物を見せ、2人は女預言者フルダにこれが失われた律法の書であることの確認を求めた。フルダがこれこそが本来の律法であると告げたため、王は民衆の前でこの書を読み上げて、神と民の契約の更新を確認し、以後の儀式がこの書にもとづいて行われるむねを告げた。タルムードの中のラビたちの伝承と同じく、近代の研究者たちもこの「失われた書物」は『申命記』に他ならないと考えた。『申命記』はモーセ五書の中で唯一、「ただひとつの聖所」の重要性を訴えている。当時、多くの場所にあった聖所を一箇所にまとめること、それによって王権を強化することがヨシヤ王の改革の狙いだったのではないかと考えられたのである。このことから、ヨシヤの改革を「申命記改革」(「申命記革命」「申命典革命」とも)と呼ぶ。 ラビたちはなぜヨシヤ王とヒルキヤが女預言者フルダにのみ書物を見せ、同時代のもっと有名な預言者エレミヤとゼカリヤに見せなかったのかという非常に重要な疑問も示している。これに対するラビたちの解答は、ゼカリヤは病気であったから、エレミヤは遠出していたからというものであった。デ・ヴェッテのモーセの著者性を否定する文書仮説をリベラル派でそのまま受け入れる人は少ない。しかし、申命記を前7世紀のものとする立場はほとんどの批評学者が受け入れている。ウェインフェルトは、その根拠として申命記の構成が前7世紀のアッシリヤ国家の条約文の表現形式に影響されていることを挙げている。 それに対し、保守的聖書学者のK・A・キッチンは申命記1章-32章の構造は前2千年期後半の宗主権条約の形式に合致しており、申命記の著作年代を前7世紀にする必要はないと考える。
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