近代英法学の二大潮流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
法典論争時最も有力だったのが、オースティンの分析法学と、ヘンリー・メインのイギリス歴史法学である。 オースティンはドイツ留学者であり、歴史法学のサヴィニーや自然法学のティボーとも交流してローマ法やドイツ法学の影響を受けていたが、結論としては古い自然法学説に対して現行法主義(法実証主義)を主張するもので、仏法を輸入せずとも日本には日本の慣習法があるという一種の国粋論と結び付いたとの主張がある(岩田新)。ただし、オースティンもメインもコモン・ローの法典化を主張する立場であった。 アメリカでも分析法学が有力であり、特に東大教授ヘンリー・テイラー・テリーは強烈な反自然法論者であった(法典論争期には日本におらず、再来日は1894年(明治27年))。 自然法とは、ヨーロッパ大陸諸国の法学者の関心を大いにひいてきた疑似的な法の一種であり、法の分野に…混乱と不明確さを…政治の分野に…乱暴な行動をもたらした源泉である。それは共産主義の主な根である。自然法は、アメリカの独立宣言の冒頭のきらびやかな一般論のうちに姿をあらわしているし、またあらゆる型のデマゴーグが好んで用いるアピールであるけれども…英米の法思想のなかで確固たる地位を占めたことはなかった。 — ヘンリ・T・テリー、東大英法講義、1878年(明治11年) このような思想に育てられた日本の英法派が、自然法を基礎とする仏法派に批判的になることは自然であった。 穂積陳重は、英国留学中、オースティンにドイツ法学の影響を認め、ドイツ転学の理由の一つとなったし、分析法学の法実証主義は、仏法派の富井政章にも一定の影響を与えた。 もっとも、陳重が最大の影響を受けたのが、オースティンに批判的なメインによるイギリス歴史法学である。法は主権者の命令によって作られるものではなく、歴史的に生成するという立場である。これは英国で独立に成立したものではなく、その歴史的方法がサヴィニーに遡ることも、陳重がドイツに転学した理由の一つである。また商法延期派の岡山兼吉(英吉利法律学校・東京専門学校創立者)も、衆議院論戦でメインの言を引用している。 ただし、慶應義塾大学法律学科の礎を築いたアメリカ人法学者ジョン・H・ウィグモアも歴史法学的要素に加えて分析法学を重視し、自然法に批判的だったが、日本の慣習法を研究する彼が旧民法を擁護したことはボアソナードを勇気づけた。
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