岡山兼吉とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 岡山兼吉の意味・解説 

岡山兼吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/24 05:30 UTC 版)

岡山 兼吉
おかやま けんきち
生年月日 (1854-07-31) 1854年7月31日
出生地 遠江国城東郡横須賀
没年月日 (1894-05-28) 1894年5月28日(39歳没)
出身校 東京大学
所属政党 議員集会所

選挙区 静岡3区
当選回数 1回
在任期間 1890年7月1日 - 1891年12月25日
テンプレートを表示

岡山 兼吉(おかやま けんきち、1854年7月31日嘉永7年7月7日) - 1894年明治27年)5月28日)は、明治時代弁護士衆議院議員(当選1回)。東京専門学校早稲田大学の前身)および英吉利法律学校中央大学の前身)の創設に参画したことでも知られる。梧堂

略歴

遠江国城東郡横須賀(現在の静岡県掛川市)生まれ。初名重吉。父の定基は横須賀藩の元締役。1865年(慶応元年)に同藩の三好左衛の養子となり、このとき兼吉と改名。維新後いったん実家に戻り、横須賀藩は安房国花房藩転封となったため、1869年移住する。同藩士の赤岩亀六の養子となるが、勉学で身を立てるに伴い解消している。藩の家老であった永富謙八の助けで、新潟英語学校に入学し、東京開成学校を経て、1882年東京大学を卒業。東大時代に高田早苗天野為之市島謙吉らと親交を得、鷗渡会のメンバーとなる。

弁護士業のかたわら東京専門学校で開校時から法律学を担当したが、やがて同校の神田進出および設立準備中の英吉利法律学校との合併を画策。1885年6月の評議員会で否決されるや山田喜之助とともに早稲田を離れ、英吉利法律学校に転じた。

1889年東京代言人新組合会長となる。1890年第1回衆議院議員総選挙で静岡3区から出馬して当選。次の選挙には出馬せず、1894年に死去。弁護士として請け負った訴訟件数は2300余に及んだという[1]

かつての同志だった市島謙吉は岡山について「若し天寿を相当保つたならば、恐らく政治家として将た事業家として大いに名を成したであらうに、一弁護士で終つたのは惜しむべきである」と評した[2]

主な著書

  • 『英米商法律原論』(共著、1884年)

脚注

  1. ^ 『タイムトラベル中大125:1885→2010』 19頁
  2. ^ 市島謙吉 『随筆早稲田』 翰墨同好会・南有書院、1935年、136頁

参考文献

関連項目

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「岡山兼吉」の関連用語

岡山兼吉のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



岡山兼吉のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの岡山兼吉 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS