財閥解体と古河三水会の発足
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「古河財閥」の記事における「財閥解体と古河三水会の発足」の解説
第二次世界大戦の敗北に伴う連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策である「経済民主化政策」の3大柱は、農地改革、労働改革、そして財閥解体であった。1945年(昭和20年)に、古河鉱業(現・古河機械金属)、古河電気工業、旭電化工業(現・ADEKA)が指定会社(制限会社)となり、1946年(昭和21年)に発足した持株会社整理委員会によって古河財閥の解体作業が開始された。 GHQによる財閥の解体は、「持株会社の解体」「財閥家族の企業支配力の排除」「株式所有の分散化」の3つの柱からなっていた。持株会社の解体に関しては、古河鉱業と古河電気工業が持株会社の指定を受けたが、純粋持株会社ではなかった(事業持株会社であった)ために解散されることなく、持株会社整理委員会に有価証券を譲渡し、子会社との資本関係を解消した上で、企業再建整備法による再建の道を進み、1950年(昭和25年)に古河鉱業と古河電気工業は共に制限会社の指定を解除された。旭電化工業は、企業再建整備計画の認可条件を満たした1949年(昭和24年)に制限会社の指定を解除された。 財閥家族の企業支配力の排除については、古河従純(古河4代目当主、元・古河鉱業社長)と中川末吉(元・古河電気工業社長)が指定され、両者の所有有価証券は持株会社整理委員会に譲渡された。また、被指定者は会社役員への就任の制限措置がとられた。 株式所有の分散化については、持株会社整理委員会が譲り受けた株式を1947年(昭和22年)に設置された証券処理調整協議会を通じて公衆(会社従業員を含む)に売却することによって行なわれた。 古河財閥は、上記の財閥解体処分により、集中排除・企業再建整備の試練を経て、それぞれ独立の企業として再出発した。しかし、同じ古河財閥の一員として成長・発展してきた同系企業相互の関係は、単に資本的・人的関係が断たれただけで崩れることはなかった。特に古河財閥の場合は、非鉄金属・電機エレクトロニクス・化学などの事業会社が中心となって原料・製品面での関連が強く、それぞれが完全独立会社となってからも協力関係が維持された。その端的な例として、1950年(昭和25年)の日本ゼオンの創立に当たって、古河電気工業・横浜ゴム・日本軽金属の旧・古河財閥(戦後は古河グループと称す)3社の緊密な協力が行なわれたことにも示されている。 古河グループの再結集の梃子の役割を果たしたのは、第一銀行(現・みずほ銀行)による融資系列の形成であった。その基本的機能は、株式の相互持ち合いによる株主安定化である(その中心的役割を果たしているのは古河財閥の源流企業・古河機械金属である)。1954年(昭和29年)に、古河グループに所属する会員相互の親睦・情報交換・協力・共同事業を行なう任意団体として、古河三水会(読み:ふるかわさんすいかい)が設立された。古河三水会の理事会社は10社で、構成会員は理事会社の主要な子会社・関連会社などから成っている。 理事会社10社は、古河機械金属・古河電気工業・富士電機・富士通・横浜ゴム・ADEKA・日本軽金属・日本ゼオン・朝日生命保険・みずほコーポレート銀行で、特に古河機金・古河電工・富士電機・富士通の4社が中核理事会社である。また、古河三水会という名称は、毎月第三水曜日に古河グループの社長会が開催されることにちなむ。グループ会社数は550社、グループ従業員数は約27万人、グループメッセージは「未来をひらく 古河グループ」、事務局は東京・丸の内の丸の内仲通りビルディング。
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財閥解体と古河三水会の発足
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第二次世界大戦の敗北に伴う連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策である「経済民主化政策」の3大柱は、農地改革、労働改革、そして財閥解体であった。1945年に、古河鉱業(現・古河機械金属)、古河電気工業、旭電化工業(現・ADEKA)が指定会社(制限会社)となり、1946年に発足した持株会社整理委員会によって古河財閥の解体作業が開始された。 GHQによる財閥の解体は、「持株会社の解体」「財閥家族の企業支配力の排除」「株式所有の分散化」の3つの柱からなっていた。持株会社の解体に関しては、古河鉱業と古河電気工業が持株会社の指定を受けたが、純粋持株会社ではなかった(事業持株会社であった)ために解散されることなく、持株会社整理委員会に有価証券を譲渡し、子会社との資本関係を解消した上で、企業再建整備法による再建の道を進み、1950年に古河鉱業と古河電気工業は共に制限会社の指定を解除された。旭電化工業は、企業再建整備計画の認可条件を満たした1949年に制限会社の指定を解除された。 財閥家族の企業支配力の排除については、古河従純(古河4代目当主、元古河鉱業社長)と中川末吉(元古河電気工業社長)が指定され、両者の所有有価証券は持株会社整理委員会に譲渡された。また、被指定者は会社役員への就任の制限措置がとられた。 株式所有の分散化については、持株会社整理委員会が譲り受けた株式を1947年に設置された証券処理調整協議会を通じて公衆(会社従業員を含む)に売却することによって行なわれた。 古河財閥は、上記の財閥解体処分により、集中排除・企業再建整備の試練を経て、それぞれ独立の企業として再出発した。しかし、同じ古河財閥の一員として成長・発展してきた同系企業相互の関係は、単に資本的・人的関係が断たれただけで崩れることはなかった。特に古河財閥の場合は、非鉄金属・電機エレクトロニクス・化学などの事業会社が中心となって原料・製品面での関連が強く、それぞれが完全独立会社となってからも協力関係が維持された。その端的な例として、1950年の日本ゼオンの創立に当たって、古河電気工業・横浜ゴム・日本軽金属の旧・古河財閥(戦後は古河グループと称す)3社の緊密な協力が行なわれたことにも示されている。 古河グループの再結集の梃子の役割を果たしたのは、第一銀行(後のみずほ銀行)による融資系列の形成であった。その基本的機能は、株式の相互持ち合いによる株主安定化である(その中心的役割を果たしているのは古河財閥の源流企業・古河機械金属である)。1954年に、古河グループに所属する会員相互の親睦・情報交換・協力・共同事業を行なう任意団体として「古河三水会」が設立された。古河三水会の理事会社は10社で、構成会員は理事会社の主要な子会社・関連会社などから成っている。 理事会社9社は、古河機械金属・古河電気工業・富士電機・富士通・横浜ゴム・ADEKA・日本軽金属・日本ゼオン・朝日生命保険で、特に古河機金・古河電工・富士電機・富士通の4社が中核理事会社である。また、古河三水会という名称は、毎月第三水曜日に古河グループの社長会が開催されることにちなむ。 グループ会社数は488社、グループ従業員数は約25万人、年間売上高12兆円、グループメッセージは「未来をひらく 古河グループ」、事務局は東京・丸の内の丸の内仲通りビルディング。
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