財閥解体と古河三水会の発足とは? わかりやすく解説

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財閥解体と古河三水会の発足

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 08:10 UTC 版)

古河財閥」の記事における「財閥解体と古河三水会の発足」の解説

第二次世界大戦敗北に伴う連合国軍最高司令官総司令部GHQ)の占領政策である「経済民主化政策」の3大は、農地改革労働改革、そして財閥解体であった1945年昭和20年)に、古河鉱業(現・古河機械金属)、古河電気工業旭電化工業(現・ADEKA)が指定会社制限会社)となり、1946年昭和21年)に発足した持株会社整理委員会によって古河財閥解体作業開始された。 GHQによる財閥解体は、「持株会社解体」「財閥家族企業支配力排除」「株式所有分散化」の3つの柱からなっていた。持株会社解体に関しては、古河鉱業古河電気工業持株会社指定受けたが、純粋持株会社ではなかった(事業持株会社であった)ために解散されることなく持株会社整理委員会有価証券譲渡し子会社との資本関係解消した上で企業再建整備法による再建の道を進み1950年昭和25年)に古河鉱業古河電気工業は共に制限会社指定解除された。旭電化工業は、企業再建整備計画認可条件満たした1949年昭和24年)に制限会社指定解除された。 財閥家族企業支配力排除については、古河従純古河4代目当主、元・古河鉱業社長)と中川末吉(元・古河電気工業社長)が指定され両者所有有価証券持株会社整理委員会譲渡された。また、指定者は会社役員への就任制限措置がとられた。 株式所有分散化については、持株会社整理委員会譲り受けた株式1947年昭和22年)に設置され証券処理調整協議会通じて公衆会社従業員を含む)に売却することによって行なわれた。 古河財閥は、上記財閥解体処分により、集中排除企業再建整備試練経てそれぞれ独立企業として再出発した。しかし、同じ古河財閥一員として成長発展してきた同系企業相互の関係は、単に資本的人的関係が断たれただけで崩れことはなかった。特に古河財閥場合は、非鉄金属電機エレクトロニクス化学などの事業会社中心となって原料製品面での関連強くそれぞれが完全独立会社となってからも協力関係維持された。その端的な例として、1950年昭和25年)の日本ゼオン創立当たって古河電気工業横浜ゴム日本軽金属の旧・古河財閥戦後古河グループ称す)3社の緊密な協力が行なわれたことにも示されている。 古河グループ再結集梃子役割果たしたのは、第一銀行現・みずほ銀行)による融資系列形成であった。その基本的機能は、株式相互持ち合いによる株主安定化である(その中心的役割果たしているのは古河財閥源流企業古河機械金属である)。1954年昭和29年)に、古河グループ所属する会員相互親睦情報交換協力共同事業行なう任意団体として、古河三水会読みふるかわさんすいかい)が設立された。古河三水会理事会社は10社で、構成会員理事会社の主要な子会社・関連会社などから成っている。 理事会10社は、古河機械金属古河電気工業富士電機富士通横浜ゴムADEKA日本軽金属日本ゼオン朝日生命保険みずほコーポレート銀行で、特に古河機金・古河電工富士電機富士通の4社が中核理事会社である。また、古河三水会という名称は、毎月第三水曜日古河グループ社長会が開催されることにちなむ。グループ会社数は550社、グループ従業員数は約27万人グループメッセージは「未来をひらく 古河グループ」、事務局東京・丸内の丸の内仲通りビルディング

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財閥解体と古河三水会の発足

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 05:38 UTC 版)

古河グループ」の記事における「財閥解体と古河三水会の発足」の解説

第二次世界大戦敗北に伴う連合国軍最高司令官総司令部GHQ)の占領政策である「経済民主化政策」の3大は、農地改革労働改革、そして財閥解体であった1945年に、古河鉱業(現・古河機械金属)、古河電気工業旭電化工業(現・ADEKA)が指定会社制限会社)となり、1946年発足した持株会社整理委員会によって古河財閥解体作業開始された。 GHQによる財閥解体は、「持株会社解体」「財閥家族企業支配力排除」「株式所有分散化」の3つの柱からなっていた。持株会社解体に関しては、古河鉱業古河電気工業持株会社指定受けたが、純粋持株会社ではなかった(事業持株会社であった)ために解散されることなく持株会社整理委員会有価証券譲渡し子会社との資本関係解消した上で企業再建整備法による再建の道を進み1950年古河鉱業古河電気工業は共に制限会社指定解除された。旭電化工業は、企業再建整備計画認可条件満たした1949年制限会社指定解除された。 財閥家族企業支配力排除については、古河従純古河4代目当主、元古河鉱業社長)と中川末吉(元古河電気工業社長)が指定され両者所有有価証券持株会社整理委員会譲渡された。また、指定者は会社役員への就任制限措置がとられた。 株式所有分散化については、持株会社整理委員会譲り受けた株式1947年設置され証券処理調整協議会通じて公衆会社従業員を含む)に売却することによって行なわれた。 古河財閥は、上記財閥解体処分により、集中排除企業再建整備試練経てそれぞれ独立企業として再出発した。しかし、同じ古河財閥一員として成長発展してきた同系企業相互の関係は、単に資本的人的関係が断たれただけで崩れことはなかった。特に古河財閥場合は、非鉄金属電機エレクトロニクス化学などの事業会社中心となって原料製品面での関連強くそれぞれが完全独立会社となってからも協力関係維持された。その端的な例として、1950年の日本ゼオン創立当たって古河電気工業横浜ゴム日本軽金属の旧・古河財閥戦後古河グループ称す)3社の緊密な協力が行なわれたことにも示されている。 古河グループ再結集梃子役割果たしたのは、第一銀行(後のみずほ銀行)による融資系列形成であった。その基本的機能は、株式相互持ち合いによる株主安定化である(その中心的役割果たしているのは古河財閥源流企業古河機械金属である)。1954年に、古河グループ所属する会員相互親睦情報交換協力共同事業行なう任意団体として「古河三水会」が設立された。古河三水会理事会社は10社で、構成会員理事会社の主要な子会社・関連会社などから成っている。 理事会社9社は、古河機械金属古河電気工業富士電機富士通横浜ゴムADEKA日本軽金属日本ゼオン朝日生命保険で、特に古河機金・古河電工富士電機富士通の4社が中核理事会社である。また、古河三水会という名称は、毎月第三水曜日古河グループ社長会が開催されることにちなむ。 グループ会社数は488社、グループ従業員数は約25万人年間売上高12兆円、グループメッセージは「未来をひらく 古河グループ」、事務局東京・丸内の丸の内仲通りビルディング

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