財政難の深刻化と改革の試み
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「薩摩藩の天保改革」の記事における「財政難の深刻化と改革の試み」の解説
薩摩藩では年貢の収公率が高く、約三分の二が収公されていたが、その上に困窮していた下級武士の救済策とされていた輪番制の蔵役人による「重み米」、「落散米」と称する収奪が加わり、実質負担率は約80パーセントを超えていたと考えられている。その上、農民たちは様々な労役に駆り出されていた。薩摩藩では農村部に暮らす在郷家臣等の厳しい監督指導のもとで農民たちを農作業に従事させていったものの、農業を生業としない武士層の指導指示は農業現場をより混乱させていた。薩摩藩は農業からの収入増加策として菜種、ハゼノキ、タバコ、そして奄美諸島の砂糖など、商品作物の栽培を強制した上で、強制買い上げを行い藩による専売を行った。しかし農民の自立度が低く、生産性が低い薩摩藩領で商品作物の栽培を強制することは、米の生産に十分な手が回らなくなることに直結した。結果として発生したのが農民の大規模な逃散と広範囲の農村の荒廃であり、薩摩藩の農業生産は深刻な悪循環に陥っていた。 薩摩藩の財政難は、木曽三川の宝暦治水事業に代表される幕府によって賦課された国役事業や、度重なる藩邸の焼失、安永8年(1779年)に起きた桜島の安永大噴火などの災害、そして江戸から鹿児島までの遠距離の往復を要した参勤交代の出費等で拍車がかかった。 財政難の中で、藩当局は藩士たちの知行高に応じて賦課する出米の賦課率を引き上げていく。これは中位から下位の藩士の生活を直撃して藩政に対する不満を高め、藩士間の内部対立が激化するようになった。そして宝暦治水事業による負担増のあおりを受けて藩財政の窮乏化が進行する中で、18世紀後半の安永から天明期には藩主、島津重豪主導で藩政改革が進められた。重豪の改革はまず徹底した倹約、藩士や領民に対する身分制度の強化、生活様式の統制介入といった引き締め策が行われた。一方ではハゼノキ、コウゾ、ウルシ等の商品作物の栽培を進め、商業活動を活性化させるために薩摩藩外からの商人の養子縁組を認め、「繁栄方」という商業、サービス業の振興を図る部署を設けたりした。これは閉鎖的であった薩摩藩の経済活動を門戸開放によって活性化させ、藩収入を増やす政策であった。 しかし藩主重豪による改革は成果を挙げられなかった。これは前述の農村の疲弊に対して何ら有効な対策が講じられなかったためであった。その上、厳しい財政難に苦しめられていた藩は、不作、凶作時にも農民たちに対する支援を行おうとせず、農村の荒廃は更に進んでいく。また、「繁栄方」の商業、サービス業の振興策は質実剛健を旨とする薩摩藩の士風を著しくゆがめたとの批判も高まっていく。藩財政は高利の藩債発行によって賄わざるを得なくなり、財政難は更に深刻化していた。このような藩財政の危機的状況、農村社会の荒廃、そして主に中位、下位の藩士に鬱積した藩政当局に対する不満を背景に、抜本的な藩政改革に取り組んだのが重豪の跡を継いで藩主となった島津斉宣であった。
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