財政難と藩運営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 14:26 UTC 版)
鯖江藩は越前国で最も遅く成立した藩であり、諸藩領に割り込む形で藩領が設定されたため、領地は国内に分散して一体性も薄かった。短期間で2度の転封を命じられた上、村上藩と鯖江藩は表高(5万石)は変わらないものの、村上藩では実高が7万石程度あったのに対して、鯖江藩は表高通りの5万石で生産力も低く、「御物成(年貢)半減」と表現されるような収入の減少をもたらし、藩は慢性的な財政難と窮乏化の進行に悩まされることになる。2代藩主・間部詮方の時代には利根川の手伝普請を命じられたほか、陣屋町は宝暦5年(1755年)に鯖江の大火に見舞われ、3代藩主・間部詮央の時代には江戸屋敷が類焼するなど、たびたび出費を迫られることになった。 5代藩主・間部詮熙は、家中や在方に厳しい倹約令を布くなど、厳しい財政運営を迫られた。一方で儒者の芥川元澄(思堂)を藩儒として招き、後進の教育に当たらせるとともに、『間部家譜』『越前鯖江志』の編纂に当たらせた。6代藩主・間部詮允は先代の遺志を継ぎ、江戸藩邸に「惜陰堂」、国元に藩校「進徳館」を開いた。
※この「財政難と藩運営」の解説は、「鯖江藩」の解説の一部です。
「財政難と藩運営」を含む「鯖江藩」の記事については、「鯖江藩」の概要を参照ください。
- 財政難と藩運営のページへのリンク