西洋近代の超克
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1936年(昭和11年)の横光の渡欧体験について吉田健一は永井荷風や島崎藤村が描いたパリは現実のパリそのものではなく、横光は「ヨーロッパに現れた日本の最初の近代人だった」「その現実を知るのには、眼は外にではなく、絶えず我々自身に向けられていなければならない。それ故にそれは自意識の問題であり、近代の特徴をなしているものが、自意識であるのと同じく現実の想念は近代に属している」と評している。 吉本隆明は『悲劇の解読』で「この外遊ほど決定的な悲劇は明治以後の文学史のうえで想定することができない」として「横光の悲劇は<西欧>という原理に、<日本>という原理を対立させたことにある」とし、『旅愁』で矢代が言霊ではイは過去の大神で、ウは現神で、エは未来の神であり、この三つをつづめて「エッ」と祈ると説明する場面について「涙が出るほど悲惨で滑稽である」と評している。この「神叫び」については横光も体験したことのある川面凡児の禊思想を象徴的に表現したものとされている。 福田清人と荒井惇見は「表面的な国粋主義に、穏やかに追従した考え方だという非難の声も湧きあがった。けれども、横光の苦悩はもっと根深く、日本という祖国を考えるとこに生じるものである」とした。 平野幸仁は、幕末明治期の知識人は和魂洋才をとなえることで西欧文明に拮抗できるほど強固な、武士道倫理や漢籍的教養を持っていたため自己喪失の危機に陥ることなかったが、横光にはそれらが欠けていたため、日本の村落共同体的原理と原始的イデオロギーである古神道に退行し、また『旅愁』では前述の「みそぎ」のほか、幣帛の切り方と数学の集合論との類似性や、龍安寺の石庭が排中律と関係があるといった議論が小説では描かれており、西欧文化のなかでしか日本文化に意味を与えることができなかったとしている。神谷忠孝や河田和子は、横光は「東洋精神による西洋精神の超克」を企てたとしている。 田口律男は、横光の「日本的原理」は保田與重郎や京都学派の「世界史の哲学」とは異なるものであったが、保田與重郎は一顧だにしなかっただろうし、また京都学派の哲学者にとっては全く問題にならない杜撰な論理と思っただろうと推理し、横光が追求した「日本的原理」の構築の作業は失敗しつづけたとしている。 三島由紀夫は、横光利一の文学と川端康成の文学の分かれ目を考察し、横光と川端は元々、同じ「人工的」な文章傾向の「天性」を持った作家であったが、横光は、その天性の「感受性」をいつからか「知的」「西欧的」なものに接近し過ぎて、「地獄」「知的迷妄」へと沈み込んでいき、自己の本来の才能や気質を見誤ってしまったとしている。一方それに対し川端文学は、寸前でその「地獄」から身を背けたことで、「知的」「西欧的」「批評的」なものから離れることができ、「感受性」を情念、感性、官能それ自体の法則のままを保持してゆくことになったと論考している。また、三島は横光の方法について川端とは逆に、「徹底的に愚直な方法でやった」とし、「あんな誠実な人はいないな。横光さんという人は好きです。ほんとに誠実だ。あの人は自分のエロティシズムの効用に全く無知だった」「あんなにすべてに無意識だった人はいない」としている。
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