西洋論理学
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明末の1631年、李之藻とフランシスコ・フルタドにより、コインブラ大学刊行のアリストテレス論理学の注解書の抄訳『名理探』が刊行された。 清末の1900年代、厳復は、J.S.ミル『論理学体系』を用いて上海で論理学の講演会を開くと同時に、同書の翻訳『穆勒名学』や、ジェヴォンズ『論理学入門』の翻訳『名学浅説』を刊行した。厳復は論理学を諸学の基礎として重要視していた。なお、厳復が「名学」という訳語を用いたのは、上記の諸子百家を念頭に置いていたため、というわけではない。厳復は、日本人が作った「論理学」という訳語を浅陋な訳語と評しており、そのような背景のもと「名学」と訳していた。 民国初期の1930年代前後には、清華大学の哲学科(zh:清华大学哲学系)を中心地として、金岳霖(中国語版)や沈有鼎(中国語版)が論理学を研究した。当時の清華大学の学者の多くは、1920年に訪中したラッセルの影響を強く受けていた。1950年代以降の中国大陸外では、金岳霖やクワインの教え子でゲーデルと親交した数理論理学者の王浩(ハオ・ワン)や、新儒家の一人でウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の訳者でもある牟宗三らが活動した。なお、金岳霖・沈有鼎・牟宗三は、諸子百家の論理学についても論じていた。 中華人民共和国初期から文革期(1950年代から1970年代)には、弁証法論理学が盛んに論じられた一方で、記号論理学の研究は停滞した。しかしその後、文革終了後の1979年に、晩年の金岳霖を初代会長として「中国論理学会」(zh:中国逻辑学会)が設立され、記号論理学も研究されるようになった。
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