西洋訪問と海軍整備とは? わかりやすく解説

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西洋訪問と海軍整備

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:37 UTC 版)

アブデュルアズィズ」の記事における「西洋訪問と海軍整備」の解説

1861年、兄のアブデュルメジト1世の後を継いで即位する1867年にはパリ開催中だった万国博覧会視察目的に、オスマン帝国の皇帝としては史上初となる西欧諸国歴訪行った。このときイギリスビクトリア女王フランスナポレオン3世面会してきいる。この時ビクトリア女王からガーター勲章受章したその折列強の持つ装甲艦魅了された彼は、のちに海軍力増強力を入れたため、この時期オスマン帝国海軍軍艦保有数だけでは世界有数となったまた、パリロンドンウィーンなどの博物館視察し帰国後にイスタンブール考古学博物館設立した1869年にはこんどはナポレオン3世皇后ウジェニー訪問してきており、イギリス皇太子エドワード王子イスタンブール二度訪問している。 この時代、兄の時代から始まっていた近代化政策引き継いでおり、1863年にはオスマン帝国初め切手発行され報道ジャーナリズム対す規則設け(1864)、オスマン帝国中央銀行再編(1863)、オスマン帝国証券所の設置(1866)、新たな行政区画(1864)、地方議会設置(1868)、裁判所設置(1868)、国務院設置(1868)、メジェッレという16項目1851項目で構成され民法典制定(1869)、宗教民族に関係なくオスマン帝国市民権得られる国籍法制定(1869)、消防署の設置(1871)、などをした。 教育面では、初めての近代的な大学(1861)、工業学校(1865)、フランス語教育高等教育を行うガラタサライ学校の(1868)、女性教師育成する学校(1870)、鉱山学校(1874)を開校した1869年には公教育法を制定し全土初等中等学校設置された。1875年万国郵便連合加入したアブデュルアズィズこのような開明的一面を持つ一方帝国財政悪化しているのを顧みずいたずらに宮殿の造営などの乱費繰り返したまた、贅沢な気晴らし賄賂求めてエジプトなどの各地漫遊し、その浪費専制ぶりは知識人青年反発をまねくほどであった上、アーリ・パシャフアト・パシャタンジマート改革進め実務官僚努力無にする発言多くアーリ・パシャ国益手続き無視して賄賂収受余念がないアブデュルアズィズ対し剛毅姿勢諫言している。 なお、力を注いだ海軍整備も、多く艦船外国製中古艦長お雇い外国人であったこのため造船操船とも技術根付くことはなかったばかりか、艦船購入維持にかかる莫大な費用国家財政圧迫することとなった。そして、これらにかかる費用公債資金調達されたため、帝国財政負担はますます増し1873年アナトリア襲った飢饉と、同年ヨーロッパ訪れた不況重なった結果オスマン帝国事実上破産状態陥ることとなった1875年)。オスマン帝国財政再建債務返済のために帝国農家に対して増税したが、これがバルカン半島諸民族反発招きヘルツェゴビナブルガリア反乱がおきることとなった

※この「西洋訪問と海軍整備」の解説は、「アブデュルアズィズ」の解説の一部です。
「西洋訪問と海軍整備」を含む「アブデュルアズィズ」の記事については、「アブデュルアズィズ」の概要を参照ください。

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