西洋訪問と海軍整備
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「アブデュルアズィズ」の記事における「西洋訪問と海軍整備」の解説
1861年、兄のアブデュルメジト1世の後を継いで即位する。 1867年にはパリで開催中だった万国博覧会の視察を目的に、オスマン帝国の皇帝としては史上初となる西欧諸国歴訪を行った。このときイギリスのビクトリア女王やフランスのナポレオン3世と面会してきいる。この時ビクトリア女王からガーター勲章を受章した。その折に列強の持つ装甲艦に魅了された彼は、のちに海軍力の増強に力を入れたため、この時期のオスマン帝国海軍は軍艦の保有数だけでは世界有数となった。また、パリ、ロンドン、ウィーンなどの博物館も視察し、帰国後にイスタンブール考古学博物館を設立した。1869年にはこんどはナポレオン3世の皇后のウジェニーが訪問してきており、イギリス皇太子のエドワード王子もイスタンブールに二度訪問している。 この時代、兄の時代から始まっていた近代化政策も引き継いでおり、1863年にはオスマン帝国で初めて切手が発行され、報道とジャーナリズムに対する規則を設け(1864)、オスマン帝国中央銀行の再編(1863)、オスマン帝国証券所の設置(1866)、新たな行政区画(1864)、地方議会の設置(1868)、裁判所の設置(1868)、国務院の設置(1868)、メジェッレという16項目1851項目で構成された民法典の制定(1869)、宗教や民族に関係なくオスマン帝国の市民権を得られる国籍法の制定(1869)、消防署の設置(1871)、などをした。 教育面では、初めての近代的な大学(1861)、工業学校(1865)、フランス語教育と高等教育を行うガラタサライ学校の(1868)、女性教師を育成する学校(1870)、鉱山学校(1874)を開校した。1869年には公教育法を制定し、全土に初等中等の学校が設置された。1875年に万国郵便連合に加入した。 アブデュルアズィズはこのような開明的な一面を持つ一方、帝国の財政が悪化しているのを顧みずにいたずらに宮殿の造営などの乱費を繰り返した。また、贅沢な気晴らしと賄賂を求めてエジプトなどの各地を漫遊し、その浪費と専制ぶりは知識人青年の反発をまねくほどであった上、アーリ・パシャやフアト・パシャらタンジマート諸改革を進める実務官僚の努力を無にする発言も多く、アーリ・パシャも国益や手続きを無視して賄賂収受に余念がないアブデュルアズィズに対し、剛毅な姿勢で諫言している。 なお、力を注いだ海軍整備も、多くの艦船は外国製の中古で艦長もお雇い外国人であった。このため造船・操船とも技術が根付くことはなかったばかりか、艦船の購入と維持にかかる莫大な費用が国家財政を圧迫することとなった。そして、これらにかかる費用は公債で資金調達されたため、帝国の財政の負担はますます増し、1873年にアナトリアを襲った飢饉と、同年にヨーロッパに訪れた不況が重なった結果、オスマン帝国が事実上の破産状態に陥ることとなった(1875年)。オスマン帝国は財政再建と債務の返済のために帝国の農家に対して増税したが、これがバルカン半島の諸民族の反発を招き、ヘルツェゴビナやブルガリアで反乱がおきることとなった。
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