西洋近代詩のエレジー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 15:40 UTC 版)
イギリスには元々エレジーの詩形はなかったが、1751年にトマス・グレイが書いた『墓畔の哀歌(Elegy Written in a Country Churchyard)』が多くの模倣者を生み、まもなくピンダロス風頌歌とエレジーの両方が当たり前のものになった。もっとも、グレイはエレジーという言葉を孤独と哀悼の詩に用い、ユーロジーには使わなかった。またグレイはギリシア、ローマの古典詩のエレゲイア詩形からエレジーを自由にした。 その後、サミュエル・テイラー・コールリッジが、エレジーは「思索にふける精神にもっとも自然な」形であり、詩人自らが思索できるならどんなテーマでも構わないと主張した。コールリッジは自分の定義がエレジーと抒情詩を融合させることだとわかってはいたが、自分が好きな抒情詩の「瞑想」的性質を重要視することと、グレイが大衆化させた種類のエレジーに言及することを続けた。ウィリアム・ワーズワースが『抒情詩集』の序文で、詩は「平安の中で瞑想された感情」から作られるべきだと言ったことは、これと似ている。ロマン主義以降、エレジーの定義は、元の「死者を追悼する詩」という狭義の意味に戻った。 ドイツではゲーテが「ローマ悲歌」 (Roman Elegies) や「クセーニエン」 (Xenien) をこの詩形で書いた。またシラーの『ネーニエ』はヨハネス・ブラームスによって曲がつけられた(哀悼歌)。ヘルダーリンは古典詩を模倣し、「パンとぶどう酒」 (de:Brod und Wein) のようなエレゲイア詩集を発表した。 以下はシラーの「逍遥」(1795年初版)の例だが、テルモピュライの戦いの英雄のためにシモーニデースが書いたとされる有名な詩を同じ韻律でドイツ語に置き換えている。 Wanderer, kommst du nach Sparta, verkündige dorten, du habest Uns hier liegen gesehn, wie das Gesetz es befahl.
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