中国における論理学とは? わかりやすく解説

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中国における論理学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/25 07:22 UTC 版)

中国における論理学中国論理学(ちゅうごくろんりがく)。一般的に「中国論理学」と言った場合、諸子百家名家墨家荀子などが論じた「名」の思想(通称「名学」「名弁」)を指す[1]。本項では更に、中国におけるインド論理学因明)や西洋論理学の受容も扱う。

中国に論理学は有ったか

桑木厳翼
著作に『荀子の論理説』(1898年)、『支那古代論理思想発達の概説』(1900年)[2][3][4]
胡適
著作に『古代中国における論理学的方法の発展』(コロンビア大学博士論文、1917年)[5]

古代中国に Logic(論理学)に対応する単語は無い。「論理学」という漢語は、明治日本で作られた和製漢語に近い語である[注釈 1]。なお現代中国語では、Logic は「論理」ではなく「邏輯」(ルオジー、拼音: Luójí: 逻辑)という音訳が用いられている[注釈 2]

同様に、古代中国に「論理学」に対応する学問分野も無い。しかしながら、明治日本の哲学研究者たち、とりわけ桑木厳翼は、諸子百家の「名」の思想を「論理学」と結びつけて研究した[注釈 3][3][4]。桑木の研究は、章炳麟王国維末の知識人にも受容された[8]。以降、中国においても諸子百家の「名」の思想が論理学とみなされるようになった。民国初期には、とりわけ胡適が諸子百家の論理学を掘り下げて研究した[9]。胡適の論理学観は、彼がコロンビア大学留学時に師事していたジョン・デューイの論理学観、すなわちプラグマティズムの論理学観を反映しているとされる[9]

一方で、「中国に論理学の伝統は無い」という見解も明治からある[注釈 4][11]。すなわち、名学は論理学としては歪な部分が多いこと、論理学だとしても秦代以降断絶していること、などによる。この見解は、中国仏教インド仏教の対照性(主に因明の不振と禅仏教の言語観)や、中国語印欧語の対照性(文法上の時制が無い)などの見解と合わさって、「中国哲学は論理的ではない」「中国人は論理的・抽象的思惟において劣っている」(代わりに現実的思惟に優れている)というステレオタイプの形成に繋がった。そのような見解・ステレオタイプをまとめた書物として、比較思想研究の大家、中村元1948年の著書『東洋人の思惟方法』がある[12]。同書は1960年に英訳され、国際的に読まれた。同書への批判も兼ねて諸子百家の論理学を研究する学者も多い[13][14][15]

諸子百家

荘子』天下篇(恵施弁者についての記述)、『荀子』正名篇、『墨子墨弁、『公孫龍子』などが、中国論理学の文献とみなされる。

因明

インドから仏教が伝来したのに伴い、因明も伝来した。因明は、中国を経由して朝鮮日本にも伝えられたが、中国と朝鮮ではやがて廃れてしまった[16]。一方、日本では奈良時代から明治時代に至るまで因明の研究が存続した[16]

上記の清末の章炳麟は因明にも関心を持っていた[17]。民国初期には諸子百家の論理学とともに再評価された[18]

近現代の仏教学では、東アジアの因明受容史は長らくマイナーな研究対象だったが、2010年代から積極的に研究されるようになった。詳細は 師 2019 等を参照。

西洋論理学

末の1631年李之藻フランシスコ・フルタドが、コインブラ大学で使われたアリストテレス論理学の注解書の抄訳『名理探』を刊行した[19]。また、マテオ・リッチ徐光啓の『幾何原本』(1607年)により論証数学が伝えられた[20]

末の1886年ジョゼフ・エドキンズ(艾約瑟)が、ジェヴォンズ『論理学入門』の漢訳『弁学啓蒙』を刊行した[21]

1900年代には、厳復J.S.ミル論理学体系』を用いて上海で論理学の講演会「名学会」を開くと同時に[22][23]、同書の漢訳『穆勒名学』や、ジェヴォンズ『論理学入門』の漢訳『名学浅説』を刊行した[24]。厳復は論理学を諸学の基礎として重要視していた[24]。なお、厳復が「名学」という訳語を用いたのは、上記の諸子百家を念頭に置いていたため、というわけではない[25]。厳復は、日本人が作った「論理学」という訳語を浅陋な訳語と評しており[26][25]、そのような背景のもと「名学」と訳していた[25]

金岳霖中国語版
中国邏輯学会中国語版(1979年設立)初代会長[27]

民国初期1930年代前後には、清華大学哲学科清華大学哲学系中国語版)を中心地として、金岳霖中国語版沈有鼎中国語版が論理学を研究した。当時の清華大学の学者の多くは、1920年に訪中したラッセルの影響を強く受けていた[28]

1950年代以降の中国大陸外では、金岳霖やクワインの教え子でゲーデルと親交した数理論理学者王浩(ハオ・ワン)や、新儒家の一人でウィトゲンシュタイン論理哲学論考』の訳者でもある牟宗三らが活動した。なお、金岳霖・沈有鼎・牟宗三は、諸子百家の論理学についても論じていた[29][30][31]

中国大陸内では、1950年代から1970年代文革期にかけて、弁証法論理学が盛んに論じられた一方で、記号論理学の研究は停滞した[32][33]。しかしその後、文革終了後の1979年に、晩年の金岳霖を初代会長として「中国論理学会」(中国邏輯学会中国語版)が設立され[27]、記号論理学も研究されるようになった[33]

関連項目

参考文献

日本語

日本語以外・翻訳

脚注

注釈

  1. ^ 高野繁男によれば、「論理学」という漢語の用例は前近代に無い。「論理」の用例は古くからあるが、意味は Logic と対応しない。[6]
  2. ^ 中国における Logic の漢訳史は、加地 2012, 第三部三章 が詳しい。加地によれば、「邏輯」という訳語は民国初期の章士釗『邏輯指要』『邏輯文』に由来するとされる[7]
  3. ^ 1898年(明治31年)の「荀子の論理説」、および1900年(明治33年)の「支那古代論理思想発達の概説」[3] NDLJP:1037868/167
  4. ^ マックス・ヴェーバーも『儒教と道教』で、中国哲学の特徴として、論理学の不在を挙げている[10]

出典

  1. ^ 加地 2012.
  2. ^ NDLJP:1037868/167
  3. ^ a b c 坂出 1994, p. 100-110.
  4. ^ a b 中島 2022.
  5. ^ 坂出祥伸 平凡社 改訂新版 世界大百科事典『胡適』 - コトバンク
  6. ^ 高野繁男「明治初期の翻訳漢語 「論理学」(「百科全書」所収)による」『人文学研究所報』第11巻、神奈川大学人文学研究所、1977年、58頁。 
  7. ^ 加地 2012, p. 329.
  8. ^ 梅 2007.
  9. ^ a b 加地 2012, 第一部一章二 胡適の『先秦名学史』.
  10. ^ M・ウェーバー著、木全徳雄訳『儒教と道教(名著翻訳叢書)』創文社、1971年。211頁。NDLJP:12290796/113
  11. ^ 坂出 1994, p. 95-99.
  12. ^ 中村元『中村元選集 決定版 第2巻 東洋人の思惟方法 2 シナ人の思惟方法』春秋社、1988年(初出1948年)ISBN 978-4393312025。第三節「抽象的思惟の未発達」
  13. ^ 加地 2013, p. 28;95.
  14. ^ Graham 2003, p. 66.
  15. ^ Hansen, Chad (1976), “Mass Nouns and A White Horse Is Not a Horse”, Philosophy East and West (University of Hawaii Press) (26-2): 191, doi:10.2307/1398188, https://doi.org/10.2307/1398188 
  16. ^ a b 師 2019, p. 41.
  17. ^ 湯志鈞「人文研のアーカイブス(9) 章太炎『佛學手稿』」『漢字と情報』第9巻、京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究センター、2004年10月、7,9、 CRID 1050282810526205568hdl:2433/57069 
  18. ^ 薮内清訳『墨子』平凡社東洋文庫、1996年。ISBN 4-582-80599-X 225頁。
  19. ^ 深澤助雄「「名理探」の訳業について」『中国 : 社会と文化』第1巻、1986年。 
  20. ^ 安大玉 著「数学即理学――『幾何原本』とクラビウスの数理的認識論の東伝について」、川原秀城 編『西学東漸と東アジア』岩波書店、2015年。 ISBN 9784000610186 123頁。
  21. ^ 坂出 1983, p. 541.
  22. ^ 高田 1967, p. 219.
  23. ^ 永田圭介『厳復 富国強兵に挑んだ清末思想家』東方書店〈東方選書〉、2011年、ISBN 978-4497211132、218;231頁。
  24. ^ a b 志野好伸「厳復と西周 西洋学術体系の移植をめぐって」『明治大学教養論集』第502巻、2014年、100頁、 CRID 1050576059523893248hdl:10291/17038 
  25. ^ a b c 加地 2012, p. 334-335.
  26. ^ 高田淳厳復の「天演論」の思想 : 普遍主義への試み」『東京女子大學附屬比較文化研究所紀要』第20巻、1965年、24頁、 CRID 1050845762587710208 
  27. ^ a b 邏輯中国”. www.cnlogic.net. 中国邏輯学会. 2021年2月13日閲覧。
  28. ^ ZHANG, Lin『「思想史的事件」としての「ラッセル来訪」再考 : 第一次世界大戦後における「文明」と「近代」への思索』 立命館大学〈博士(文学) 甲第1300号〉、2019年、12頁。doi:10.34382/00010492hdl:10367/12265NDLJP:11361619https://doi.org/1034382/00010492 
  29. ^ 馮 1995, p. 293(金岳霖).
  30. ^ 志野 2020, p. 75(沈有鼎).
  31. ^ 加地 2012, p. 27(牟宗三).
  32. ^ 加地 2012, p. 350.
  33. ^ a b 坂本 1986, p. 45-47.

外部リンク




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