墨弁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/25 16:36 UTC 版)
墨弁(ぼくべん、墨辯)または墨経(ぼくけい)は、中国の古典『墨子』の中の6篇(経上篇・経下篇・経説上篇・経説下篇・大取篇・小取篇)の総称。
幾何学・光学・力学・論理学(中国論理学)などについて、術語事典・学説集のような形式で論じる。中国科学史・中国哲学史の重要資料である一方、文章の短さ、錯簡の多さなどから、『墨子』の中でも難解な箇所として知られる[1]。
概要
著者については墨翟・歴代鉅子・墨家三派・別墨など諸説ある[1]。
基本的には以下のような形式で書かれている。
- 経上篇と経下篇 - 簡素な短文(主に術語の定義文)の箇条書き。
- 経説上篇と経説下篇 - 経上篇と経下篇で箇条書きした短文に対する解説文(注釈・言い換えのような文)の箇条書き。
- 大取篇と小取篇 - 学説の枚挙。
「経・経説」と似た形式は、近い時代の他の文献にも見られる[2]。例: 『韓非子』十過、および内儲説上などの「儲説」諸篇、『管子』乗馬・宙合・心術上、および牧民解などの「解」諸篇、思孟学派の『五行』、『黄帝四経』の『経法』君正・論・亡論など[2]。「経・経説」の成立順序(「経」が先に書かれたのか、それとも同時に書かれたのか)については諸説ある[3]。
受容
西晋の魯勝は、墨弁の注釈書を著したが、叙文だけ残して散佚してしまった[4]。「墨弁」という呼称はこの叙文に由来する。
清代には、王念孫・畢沅ら考証学者が『墨子』全般を研究・再評価した。特に乾隆55年(1790年)には、張恵言が『墨子経説解』を著している[1]。清末の孫詒譲・鄒伯奇・陳澧は、『幾何原本』など西学の知識を用いて解釈した[5]。
民初の1920年代前後には、胡適・梁啓超ら多くの学者が、西洋の論理学等と比較して名家とともに再評価した[1][6]。ただし、この時期の研究は「墨子インド人説」に象徴されるように、実証性よりも斬新さを競うような研究が多かった[7]。
関連項目
日本語訳
参考文献
- 井ノ口哲也「「経」とその解説――戦国秦漢期における形成過程――」『中国出土資料研究』第2号、1998年。
- 高田淳「墨経の思想 : 経上・経説上について」『学習院大学文学部研究年報』1963年。国立国会図書館書誌ID:764856
- 高田淳「墨経の思想 : 経下・経説下について」『東京女子大學論集』1964年 。
- 楊寛著、西嶋定生監訳、高木智見訳「第二章四 墨子と墨経」『歴史激流 楊寛自伝 ある歴史学者の軌跡』東京大学出版会、1995年。ISBN 978-4-13-023044-5。
- Fraser, Chris (2003), “Later Mohist Logic, Ethics and Science After 25 Years”, in Graham, A.C., Later Mohist Logic, Ethics and Science, Chinese University Press, ISBN 978-9622011427
- 晋荣东『中国近现代名辩学研究』上海古籍出版社、2015年。ISBN 978-7532576623。
脚注
- ^ a b c d 楊 1995, p. 46f.
- ^ a b 井ノ口 1998, p. 52.
- ^ 井ノ口 1998, p. 58.
- ^ 叙文は『晋書』隠逸伝にある。
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:魯勝墨辯注敘
- ^ 晋 2015, p. 38.
- ^ Fraser 2003, p. xviii.
- ^ 楊 1995, p. 46f;94.
外部リンク
- ctext.org 墨子 - 中国哲学書電子化計画
- Mohist Canons - スタンフォード哲学百科事典「墨経」の項目。
- 墨弁のページへのリンク