畢沅とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 畢沅の意味・解説 

畢沅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 08:55 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
畢沅

畢 沅(ひつ げん、1730年 - 1797年)は、中国代の官僚・歴史家。纕蘅。号は秋帆、晩年は霊巌山人と号した。太倉州鎮洋県の出身。

略歴

蘇州の霊巌山で沈徳潜について学ぶ。1753年郷試に合格すると内閣中書に任ぜられ、軍機処に入った。1760年進士となり、1765年翰林院侍読学士となった。1770年に陝西按察使、翌年には陝西布政使となった。官は最終的に湖広総督にまで昇った。湖広総督在任中の1796年、枝江の白蓮教徒聶人杰が蜂起すると畢沅は枝江に向かいこれを鎮圧した。1797年に病死すると太子太保を贈られたが、1799年に白蓮教の鎮圧に力を注がずに軍費を濫用したとして、世職を奪われ、家財を没収された。

学識は幅広く、経学史学金石学地理学に通じていた。著作には『続資治通鑑』220巻がある。これはの正史を通史とするために、『資治通鑑続編』『宋元資治通鑑』『続資治通鑑長編』『資治通鑑後編』などの史料をもとに、20年かけて編纂したものである。

門人の洪亮吉によると畢沅は常日頃から賢才を重用したという。そのため著名な学者の章学誠孫星衍汪中段玉裁らが幕下に集まった。

一方、男色家とも知られ、戯曲の演員の李桂官に恋慕し、著名な詩人袁枚に恋慕のを依頼して、求愛の詩を詠った逸話がある[1]

主な著書

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 趙翼の『檐曝雑記』2巻の「梨園色藝」による。
  2. ^ 近藤光男・小学館日本大百科全書(ニッポニカ)『畢沅』 - コトバンク

著作

  • 『霊巌山人文集』
先代:
巴延三
陝西巡撫
1773-1779
次代:
劉秉恬
先代:
雅徳
陝西巡撫
1780-1785
次代:
何裕城
先代:
何裕城
河南巡撫
1785-1786
次代:
江蘭
先代:
李侍堯
湖広総督
1786
次代:
李侍堯
先代:
江蘭
河南巡撫
1786-1788
次代:
伍拉納
先代:
舒常
湖広総督
1788-1794
次代:
福寧
先代:
福寧
湖広総督
1795-1797
次代:
姜晟



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  畢沅のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「畢沅」の関連用語

畢沅のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



畢沅のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの畢沅 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS