織豊時代から江戸時代中期まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 09:36 UTC 版)
「平島公方」の記事における「織豊時代から江戸時代中期まで」の解説
豊臣秀吉の天下になっても1万石という待遇を保てた足利義昭(江戸幕府の下で大名格の扱いを受けた喜連川氏(鎌倉公方家の後裔)、さらには讃岐国から探し出された上に熊本藩士として召抱えられた尾池義辰(義輝の遺児といわれる)のような人物の子の西山至之・尾池藤左衛門ですら1000石の扶持を受けていたという事態)とは対照的に、織豊期はおろか徳川期における蜂須賀氏の客将時代でも、平島公方は冷遇されていた。 その一方で、陪臣の扱いでありながら堂上家公家である水無瀬家や持明院家の娘や西洞院家の養女を妻に迎えた当主もおり、その権威や血筋を京都の朝廷からはある程度認められていた。 しかし、実際の暮らし向きに権威や血筋が反映されておらず、阿波徳島藩主・蜂須賀氏からは客将として扱われたとはいえ、義維以来の3千貫の所領没収の上、茶湯料としてわずか100石しか受けられなかった。蜂須賀氏としては、領内にこのような権威を持つ特別な家が存在することは好ましくないが、領外に退去させることも踏み切れなかったためである。 慶長13年(1608年)、足利義次は足利氏の家名を平島氏に改姓させられ、平島又八郎と名乗らされたうえ、公方家の藩に対しての取り次ぎ窓口を家老職から、一般寄合階級に振りかえるなどの一層の冷遇を受けた。『平島公方史料集』所収の史料によると、蜂須賀氏は阿波公方家を自身の直の臣下として組み込もうと計画していた事実もある。 そのような不遇下でも、歴代当主の中には漢籍などに長けた者(例えば、義宜)などが多く、一大文化拠点のようなものを形成していたこともあった。4代義次の代には旧領のうち七浦山が返還され、5代義景の代には現米100石の合力米が許され、やがて明和年中(1764年 - 1771年)には現米950石が給され1190石まで知行が加増したなど、ようやく待遇の改善も見られた。蜂須賀治昭の幼少の頃は友好関係を取り戻していた。8代義宜は京都の学者の島津華山を招いたことで、公方家の住まいであった平島館は漢文学のサロンを形成することになった。 だが、文化2年(1805年)、9代義根は病気療養を名目に阿波退去の許可を請うた。藩主・蜂須賀治昭は好学であったため義根の教養を惜しんで引き留めたが、義根の意志は変わらなかったため阿波退去を許可し、義根には餞別として銀300枚を、平島家代々の墓がある西光寺には墓守料50石を与えた。退去の真相は明らかではないが、義宜の頃より平島家が松平大和守や大奥を刺激した蜂須賀重喜追い落とし工作に対する蜂須賀家の平島家への意趣返し(栄典の剥奪など)に耐えかねたという説や、屋敷や領内の七浦山の上質の木材を未処分のまま、あわただしく退去していることから、義根の子・義寛を紀州藩に仕官させる内約があったため急いで退去したという説がある。しかし、急いで退去したと言うには疑問がある。というのは、退去を公方家が阿波藩に届けてからかなり経過しておること、それについて退去督促状を阿波藩が公方家側に出していること、退去費用捻出のために屋敷の施設を各所に売却するなどしていたこと、退去時の同行家臣は、公方が平島に居着く以前の者に限ることなどを阿波藩が布告し、その通りにさせていることなどが上げられる。また、義寛の仕官の伺いは、阿波退去後に出されていること、安政年間に、義俊が紀州藩家老宛に「知行地もしくは邸宅下賜の願い」を出していることなどが上げられる。『徳島県史』がこれらに触れていないのは、編纂時に平島側史料にそれほど拠っていないためだと言える。文化2年(1805年)7月25日、義根一行は船で京都に向け出港した。
※この「織豊時代から江戸時代中期まで」の解説は、「平島公方」の解説の一部です。
「織豊時代から江戸時代中期まで」を含む「平島公方」の記事については、「平島公方」の概要を参照ください。
- 織豊時代から江戸時代中期までのページへのリンク