編成時すでに遅し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 21:08 UTC 版)
8月、訓練処が設置され、保定軍官学校や安徽派に近い北洋各師から選抜された構成員は、あらかじめ北京・黄寺の参戦軍軍官教導団および北苑の参戦軍軍士教導団(6個営、約3200人)で3か月間の訓練を受けた。「四大金剛」の一人であった靳雲鵬が参戦軍督練として請負い、坂西ら日本陸軍軍事顧問らが教官として指導した。1~14週は基本教練、戦闘教練、実弾射撃と銃剣基本動作、15~38週で大隊以下の対抗演習、39~50週で団、旅、師の野外演習となっていた。12月、両教導団の訓練が終了し、安徽省、山東省、河南省などで新兵招募を行い、部隊編成の準備に取り掛かった。こうして集まった新兵3万余名は早期訓練が行われ、1919年(民国8年)1月1日、参戦軍第1、第2、第3師が正式に成立。計画上は6個師を目指しており、同月6日には靳雲鵬が第3師師長・陳文遠に対し、安徽・山東・河南3省で各1万人の新兵を募集し3個師の編成に取り掛かるよう指示している。 しかし、この時既に前年の11月11日には休戦協定が結ばれ、1月18日からパリ講和会議が開会されたため、欧州派兵の可能性はなくなった。以降は国内戦での運用を志向し、2月、徐樹錚は一個旅を以て大青山北にて軍事演習を実施、また直隷派との決戦を見越し河南省派兵も検討されたが、大総統・徐世昌が自身の故郷を主戦場とする事に反対したため流れ、またこの件で段祺瑞と徐世昌の板挟みとなった参戦督練の靳雲鵬は離反した。その間にも、1月21日、日本の武器供与が南方政府や列強各国の知るところとなった。 2月20日より始まった上海南北和平談判(中国語版)では、南方政府代表は参戦軍の編成を積極的に進めていることを非難し、翌21日、参戦軍の募集の停止を要求した。また、唐継尭は直接日本政府に参戦借款の停止を要求し、24日、日本政府は北京政府に参戦借款の停止を認める声明を出した。27日、唐継尭は徐世昌に対し、参戦処および参戦軍の指揮は徐が行う事、参戦借款の停止、を要求した。28日、南方政府は、和平締結には陝西省停戦、参戦軍の取り消しが前提であるとの立場を堅持した。 この問題は連合国も危険視し、同日28日、北京の日本公使小幡酉吉は突然訪問した英公使(英語版)ジョン・ジョーダン(英語版)より参戦軍取り消しについてイギリス本国から訓令があり、仏公使(中国語版)オーギュスタン・ボッペ(フランス語版)にも同様の訓令があったことを伝えられた。公使館附武官の東乙彦少将は、これを列強諸国による日本の対支那勢力を排除する計画と受け止めた。3月1日、日本政府は小幡公使を介し、参戦借款不引出通告、武器交付中止声明を発した。ただし参戦軍の存続を巡っては、3日、小幡公使はジョーダン公使に対し、その取り消しを勧告するつもりはないと述べた。5日、国務院は陝西省停戦とともに参戦軍事協定に関する通電を発した。 3月7日、米公使ラインシュ、英公使ジョーダン、仏公使ボッペ、伊公使(イタリア語版)カルロ・ガルバッソは外交部に対し、参戦借款の緩和、および参戦軍は内戦を助長するものではないとの保証を要求した。また11日、4公使は小幡公使と参戦軍問題について会談した。小幡公使は、中国内政への不干渉政策をとり、参戦借款は商業交易であると述べた。5月10日、唐紹儀は八か条要求の中に参戦軍廃止を盛り込んだ。しかし北方政府の朱啓鈐がそれを拒絶したため、両者は決裂、13日をもって和平会議は終了した。 5月6日、日本政府は英、米、仏、露各国と共同で、正式政府成立まで絶対に武器供給を中止する旨の通告を発した。 7月8日、多倫県に参戦軍先遣隊が派遣され、前進指揮所が設置された。
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