竹内巨麿について
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竹内巨麿(1875年? - 1965年) 以下の経歴は巨麿自身の主張による。 富山県上新川郡新保村生まれ。幼少のとき、母が暴漢に襲われ自殺、そのあだ討ちのために修行を思い立った。 1893年(明治26年)、祖父から遺言で「世の中が平和になったときに公開せよ」として譲り受けた宝物・文献を携えて上京。宝物・文献は知人に預けて、東京御嶽教本部に入信。鞍馬山とさらに奥にある大悲山で千日間にわたり修行した。そこで、「大己貴尊」(おおなむちのみこと)をはじめとする神霊や修行者から神法道術や神代文字を学ぶ。 1897年(明治30年)、宝物・文献のことが気になり、東京に戻り、しばらく滞在。母の仇を探す。 1899年(明治32年)、宝物・文献を持って茨城県北茨城市磯原に引っ越す。そこで治病祈祷などで人心をつかみながら信者を獲得。宝物・文献を一部の人に公表。 1907年(明治40年)ごろ、母の仇の所在を突き止めたが、前年にすでに他界していた。 1910年(明治43年)秋、神代(神武天皇以前)の時代から伝わる真の歴史書であるとして「竹内文書」を公表。この文献・神宝類を「経典」として皇祖皇太神宮を復興、天津教の開祖となる。 『明治奇人今義経鞍馬修行実歴譚』長峰波山 1912年(大正元年) 八幡書店 ISBN 4893502328 (1987年1月)竹内巨麿の口述書であるが、これにはまだ、竹内文書も平群真鳥についても述べられていない。 1921年(大正10年)頃、『長慶天皇御真筆』、『後醍醐天皇御真筆』、『日蓮上人御真筆』などを所有していると公開。 1929年(昭和4年)8月4日、戸籍の名を巨麿に改名。 1930年(昭和5年)- 1944年(昭和19年)、「天津教弾圧事件」 1945年(昭和20年)3月、押収された文献や「宝物」は、無罪判決後も巨麿には返還されず、東京の司法省に保管されていたが東京大空襲でほとんどが消失。このため、現在でも残っている竹内文書といえば、前に巨麿や一部の研究家によって写筆された資料に基づく『神代の万国史』(皇祖皇太神宮刊)と焼け残ったわずかな「神宝類」しかない。 1965年(昭和40年)1月27日、他界。長男義宮が巨麿の跡を継ぎ、皇祖皇太神宮の第67代管長に就任。義宮も1999年に死去、現在は義宮の長男康裕が第68代管長をしている。 なお、巨麿の四男で、高畠家に養子に行った吉邦は「天神人祖一神宮」(富山県滑川市)の管長である。 一方、1936年(昭和11年)に詐欺罪、不敬罪によって逮捕された際の特高警察の捜査による内務省警保局保安課資料によると巨麿の経歴は以下の通り。 1874年(明治7年)に富山県上新川郡新保村の寡婦杉政みつの私生児として生まれる。父親については「石川県の木挽職森山勇吉」「木挽職通称竹次郎(姓不詳)」の二説があり定かではない。生後まもなく婦負郡神明村久郷の小作農竹内庄蔵の養子となり、戸籍上はその長男として1874年(明治7年)5月12日に出生届が出された。本名を竹内岩次郎という。 養父母、養祖父母と死別した後、1894年(明治27年)に上京して石工人竹橋五郎方に住み込んで職人見習いとして働き始める。その頃から御嶽教会に入信し、そちらに熱心になるにつれて職を転々とするようになる。修行の名目で全国を行脚するうちに自ら教団を主催することを思い立ち、その権威付けをするために鞍馬山に参寵すると称して姿をくらますと、ひそかに文献や神宝の偽造を行う。 1900年(明治33年)、茨城県多賀郡磯原町に天津教の前身にあたる御嶽教天都教会を開設。当初、天津教は御嶽教の一支部として出発した。
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