稚児ヶ淵から岩屋へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 06:27 UTC 版)
稚児ヶ淵 - 江の島南西端の幅50mほどの隆起海食台。大島、伊豆半島、富士山が一望でき、1979年(昭和54年)かながわ景勝50選の一つに選ばれた。夕暮れ時には富士山の方角に陽が沈む光景を見ることが出来る。回遊魚が釣れる磯釣りのスポットとしても知られる。島の裏側にあるため、徒歩では峠を越える必要があり往来に時間が掛かるが、波が穏やかな時は近道となる定期船も運行される。稚児ヶ淵は足元が滑りやすく、転倒した際は海に転落する可能性が高い。外洋の荒波が直接打ち寄せるため、海が荒れている時に縁に居ると波にさらわれる危険もある。夜間は完全な暗闇となり、歩行自体が危険であるため、日没後に利用者は居なくなる。稚児ヶ淵の名は、万治2年(1659年)の中川喜雲の『鎌倉物語』などに見られる鎌倉相承院の稚児白菊と建長寺広徳院の自休蔵主が相次いで身を投げたとする話に基づく。1817年(文化14年)初演の鶴屋南北の『桜姫東文章』にも採り入れられて広まった。 稚児ヶ渕句碑 - 風化が激しく、年代・作者とも不明。脇に石灯籠が立つ。永瀬覇天朗句碑 - 本名=永瀬登三郎(1873年 - 1937年)。藤沢大坂町坂戸の酒屋日野銀の主人。句集『覇天朗』を著す。この句碑は1937年(昭和12年)に桟橋のところに建てられたものが、波浪で破損したのを、江の島俳句協会などの協力によって1961年(昭和36年)にこの地に場所を移して再建された。 江の島弁天橋行き渡船乗り場 - 稚児ヶ淵から西に回り込んだところにある。潮位に応じて高低差のある2本の波止場を使い分ける。 岩屋 - 江の島南西部の海食崖基部の断層線に沿って侵蝕が進んだ海蝕洞群の総称。古来、金窟、龍窟、蓬莱洞、神窟、本宮岩屋、龍穴、神洞などさまざまな名で呼ばれており、宗教的な修行の場、あるいは聖地として崇められてきた。富士山風穴をはじめ、関東各地の洞穴と奥で繋がっているという伝説がある。江の島参詣の最終目的地と位置づけられ、多くの参詣者、観光客を引きつけてきたが、1971年(昭和46年)3月7日に崩落事故が起き、以来立ち入り禁止措置がとられた。22年を経て藤沢市の手で安全化改修工事が行われ、1993年(平成5年)第一岩屋と第二岩屋が有料の観光施設として公開された。2017年(平成29年)10月に発生した台風21号により、入口付近の階段の崩落や洞窟内への岩石流入が発生したため、再度立ち入り禁止となった が、復旧を進め、2018年(平成30年)4月28日に公開が再開された。第一岩屋 - 公開区間の全長152m。奥で二手に分岐する。展示室 - 洞内入口近くの人工の横穴で、江の島ゆかりの資料や浮世絵、古地図などを展示。 神秘の池 - 本洞に入ったところにあり、夜光虫を模した電飾が施されている。 石造物群 - 古来洞内にあった各種の石仏・石神・石祠などが分類整理されて陳列され、照明が当てられている。最奥部右手に弘法大師坐像が安置されているが、鎌倉市手広にあった廃寺寶積院(真言宗青蓮寺末寺で手廣山藥王寺と号す)にあった相模国準四国八十八ヶ所札所の像が運ばれたものである。 與謝野晶子歌碑 - 2002年(平成14年)、鵠沼在住の歌舞伎研究家・中山成彬(元文部科学大臣とは別人)によって洞内に設置された。書:尾崎左永子。 第二岩屋 - 公開区間の全長112m。入口は2本の洞が並行し、奥で一つになる。龍神 - 公開区間最奥部に設置された観光施設。音響と照明でおどろおどろしい龍神を表現。 「名勝江の島」の碑(2009年7月22日撮影) 江の島弁天橋(2009年7月22日撮影) 「青銅の鳥居」(2009年7月22日撮影) 江の島神社の参道(2009年7月22日撮影) 江の島神社の鳥居(2009年7月22日撮影) 江の島神社の拝殿(2009年7月22日撮影) 江の島展望灯台入口(2009年7月22日撮影) 展望灯台(2009年7月22日撮影) 展望灯台から弁天橋を見る(2013年9月6日撮影)
※この「稚児ヶ淵から岩屋へ」の解説は、「江の島」の解説の一部です。
「稚児ヶ淵から岩屋へ」を含む「江の島」の記事については、「江の島」の概要を参照ください。
- 稚児ヶ淵から岩屋へのページへのリンク