稗田御厨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/03 06:07 UTC 版)
承久2年(1220年)12月、藤原朝高により、稗田村が権禰宜度会常生に寄進され、貞応元年(1222年)6月、常生は伊勢外宮の御厨(みくりや)としてこれを寄進した。この藤原朝高とは、藤原氏である那須氏を出身とする稗田朝隆とされ、稗田城は、御厨支配の拠点となったと考えられている。しかし、これに対して、下野国衙在庁から異議が出され、貞応2年(1223年)に鎌倉幕府に訴え出たことから、朝廷や幕府を巻き込んでの政争の地となる。寛元元年(1243年)12月16日には、幕府が御厨支配を認めたことで、政治的決着が図られているが、その後も、御厨支配に対する国衙の妨害があり紛争は続き、乾元2年(1303年)3月6日(乾元2年は、8月5日に嘉元元年に改元)の文書を最後に御厨として登場する資料が無いことから、早くて鎌倉末期、遅くても南北朝期には、御厨としての機能が完全に失われたと考えられている。
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