神聖性と世俗面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 08:50 UTC 版)
島全体が御神体であるとされ、年一回のみの上陸・女人禁制・禊などの禁忌から神聖性が強調される沖ノ島だが、江戸時代には福岡藩が防人をおいていた。これは神域を守る目的ではなく、江戸幕府の鎖国政策に伴う外国船の監視任務であった。 島での見聞については、島の別称でもある「不言様(おいわずさま)」として一切口外が許されないとされるが、江戸時代に入り貝原益軒は防人を務めた者からの聞き取りを行っており、『筑前国続風土記』に島の詳細な様子を記している。ただし江戸時代より以前は文書への記述すら憚りが有ったとの説もある。なお、現代でも「不言様」の範囲は鳥居(実物)から先の境内であり、船着き港周辺や島の外貌は特に公開など止められてはいない。 島内の「一草一木一石」たりとも持ち帰ることも許されないが、筑前の大名黒田長政は祭祀遺物の金銅製織機などを家臣に命じ取り寄せさせており、その後祟りがあったとして遺物は島に戻された。また、防人は嶋土産と称し山中から薬草を持ち帰っている。 島内での殺生は禁じられているが、防人や水夫らは魚介を食し、直会の後は酒盛りも行われていた。当然ながら防人は多数の武具を持ち込んでいた。 沖ノ島には筑前大島の漁師も訪れ、禊をして上陸していた。山中では「唾を吐かない」「用を足さない」「忌言葉を口にしない」といった不浄を避ける行いをするが、山と磯とには聖俗の境界があり、島全体を神聖化していた訳ではない。地籍図には島の東岸に2989番と2990番がふられ、漁業協同組合名義になっており、係留設備や船小屋が設けられていた(この工事の際には島の岩壁を爆破している)。レジャーとしての釣りが盛んになった現代では、沖ノ島周辺の海に漁礁を設けるため、多くの廃船を沈めている。なお、古くから地元漁民による漁業や釣りは海洋神である宗像神からの授かり物(賜物)という考え方により行われ、漁師は魚を宗像社へ奉納していた。また、頂上には沖ノ島灯台(後述)があり灯台に携帯電話のアンテナも併設されている。もっとも、神社以外の人工物は灯台と避難港としての船着き場の岸壁や擁壁護岸、係留施設、神職を含む関係者の居住家屋(太陽光パネルもある)など限定的である。 1888年(明治21年)には宗像大社自身が男性氏子を対象にした沖津宮参詣旅行を企画し、博多で参加者を募集して催行された(日程は6月24~27日)。 日露戦争時には陸軍の防衛基地が設置されたことで駐屯した兵士の口から島の様子が語られ(箝口令はなかった)、1936年(昭和11年)に宗像高等女学校(現宗像高校)の教師だった田中幸夫(1901~1982)が『宗像の旅』を上梓しその存在が全国に知れ渡り、歴史学・民俗学・宗教学などの学術論議が盛んになり、個人的に渡島する者も多かったという。 これらのことから沖ノ島の神聖性が強調され文化的空間が形成されるようになったのは明治時代、国家神道の成立過程と関わる向きもあり、イコモスの勧告でも「自然崇拝に基づく古代の沖ノ島信仰と現在の宗像大社信仰に継続性は確認できない」「女人禁制など沖ノ島の禁忌の由来は17世紀までしか記録をさかのぼれない」と指摘した。 参考文献:「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議(福岡県人づくり・県民生活部文化振興課世界遺産登録推進室 - 福岡県)
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