短榴弾砲概要
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陸軍技術審査部は明治39年 (1906年)11月に三十珊榴弾砲についての建議を行い、砲弾重量400kg・初速400m/秒で一般的な砲弾形状であれば射程11,430 mに達するとされた。また当時の軍艦は防御甲板の上に複数の甲板を持つものであったが、砲弾がこれらの甲板を侵徹する際に弾道が不規則に変化することが問題となった。陸軍は旅順攻囲戦で二十八珊砲による大規模な対艦射撃を実施していたために砲弾の形状や弾長・着速・着角などから導かれる対艦射撃に効果的な砲弾について多少の見識は有していたものの未だに十分ではなく、砲の設計と合わせて調査するものとされた。明治40年 (1907年)4月には技術審査部より砲の設計要領書が提出され、固定砲床式の砲身後座砲で口径305 mm・砲身長16.5口径・高低射界-5〜+65度・最大射程12,000 mといった諸元を有するものとした。 同時期には特殊重砲として十五珊加農砲・二十珊榴弾砲・二十四珊榴弾砲・四十一珊榴弾砲の研究も開始された。陸軍は当初国内で三十珊榴弾砲を開発するのは困難であると考えて海外より輸入するつもりであったが、技術審査部長有坂成章中将の反対によって砲を国産とし製造が困難な砲身素材のみドイツのクルップ社から輸入することとなった。砲の設計は明治40年8月に完了し、大阪砲兵工廠に試製注文するとともにクルップ社に砲身素材を発注した。試製砲は明治43年 (1910年)5月に完成し、6月に春木射場で第1回試験を実施した。試験の成績に基づく修正を加えて明治44年(1911年)5月に伊良湖射場で第2回機能試験を実施し、高低照準器に改修を加えて9月に同じく伊良湖射場で第3回機能試験を実施した。ところが明治45年 (1912年)6月に春木射場で実施した第4回試験において砲身を損傷する事故が発生し、開発終了を目前に控えていたにもかかわらず試験は一時中断されることとなった。調査ではイギリスのトーマス・ファース社製の砲身地金が脆弱であることが判明し、以後同部分についてもクルップ社のものを使用することとなった。また砲各部の設計も見直し、大正3年 (1914年)にドイツから砲身素材が届いたところで第一次世界大戦の勃発により開発は再び中断することとなった。そこで既存の素材を用いて砲を製作することとなり、大正5年(1916年)5月に砲身・揺架、9月に砲架以下の製作をそれぞれ開始した。大正6年(1917年)1月に完成した試製砲は2月に春木射場、5月に伊良湖射場で機能試験を実施した結果良好な成績を収めた。7月には春木射場で若干の修正を加えた2号砲の試験をで実施したところ結果は良好であり、以上をもって短榴弾砲の審査は完了した。陸軍技術審査部は大正7年10月31日に本砲を七年式三十珊短榴弾砲として制式制定を上申した。度量衡法の改正に伴い陸軍は大正13年(1924年)7月1日付の陸普第2463号をもって度量衡の単位表記を改めることとなり、以後七年式三十糎短榴弾砲と表記することとなった。 砲は砲身・揺架・砲架・回転盤・架匡・砲床からなり、揺架上部に1個の水圧駐退機と2個の空気複座機を有する。閉鎖機は螺式で、撃発機は閉鎖器が完全に閉鎖された状態でのみ作動する。砲架以上の構造は架匡上の回転盤に積載し、架匡は砲床と結合する。砲床はベトン製で地中に埋設し、射撃時に砲を安定させる。本砲は照準具として高低照準具と方向照準具を有する。高低照準具は射角板と指針からなり、補助として象限儀を用いる。方向照準にはパノラマ眼鏡を有する観準儀・射角板・弧板・指針からなる照準具を用いる。また目標の高低や砲床の傾斜に基づき照準を修正する装置も付属していた。また本砲の開発に合わせて作業に用いるために四脚二十噸起重機も開発された。 昭和8年 (1933年)には移動砲床を用いて陸戦で使用できるように改修を加えた砲が開発された。砲は砲身・揺架・砲架・回転盤・砲床に分解し、9両の特殊重砲運搬車に積載して九五式十三屯牽引車によって最大時速20km/時で牽引することが可能であった。組み立ては日中で15時間、夜間で20時間を標準とした。移動型の総重量は77,030 kgに達した。本砲4門を装備した独立重砲兵第4大隊の場合、段列などを含めた大隊全体で十三屯牽引車56両と4トントラック約50両を保有し、この車両数で部隊独力での機動が可能な状況だったという。
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