相撲界との関係断絶
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1982年(昭和57年)、初代追風の750回忌の式典が多くの力士や相撲関係者の臨席の下、吉田司家で行われたが、その席上で25世吉田長孝は春日野理事長(当時)より熊本に相撲博物館の建設の薦めと、建設費の一部の寄付について打診を受ける。25世吉田長孝は当時熊本市職員であったが、この計画の実現の為、当時の熊本市長星子敏雄の同意を得た上で熊本市を退職、財団法人設立に向けて東京都内で活動を行っていた。 しかし1986年(昭和61年)5月、司家内に金銭上の不祥事が発覚する。25世吉田長孝が上京中に、宗教法人であった吉田司家の事務職員が野球賭博に手を染め、司家の法人資金を使い果たした上に、25世吉田長孝名義の手形を乱発して総額8億円もの借金が膨れ上がっていたのである。「吉田司家が不渡りを出したようだ」との報を東京で受けた25世吉田長孝は熊本に戻って金策に奔走したが、結局年内に二度目の不渡りを出し宗教法人としての吉田司家は倒産状態に陥ってしまった。 その結果、25世吉田長孝と春日野理事長との会談で、横綱授与の儀式を全面的に協会へと委ね、当面は協会との関係を中断する旨を双方了解した。なお、1983年(昭和58年)7月に推挙の第59代横綱隆の里俊英までは司家も推挙式に臨席し、毎年十一月場所後に司家の土俵での奉納土俵入りが行われていたが、関係中断によって1986年7月に推挙の第60代横綱双羽黒光司以降、司家は推挙式には臨席せず、司家土俵での土俵入りも事実上の廃止となり、行われなくなった。これに伴い、司家が学生横綱に絹手綱を授与する儀礼も、事実上廃止されている。1992年(平成4年)には司家の支援団体である司家相撲協会が、司家と相撲協会の復縁を求める10万人分の署名を相撲協会に提出、翌1995年(平成5年)に復縁に向けた協議が行われたが、結局この時には復縁は実現しなかった。 かつて司家の屋敷は熊本市北千反畑町(中央区)の藤崎八旛宮参道脇にあり、土地約1000平方メートルの敷地に吉田追風の住宅、天照大神・住吉大神・戸隠大神の三神(十三代吉田追風が相撲関係者の崇拝神として定めたという「相撲三神」)を奉斎した神殿、吉田司家宝物館、土俵など建物計約200平方メートルが存在していた。1990年(平成2年)、25世吉田長孝は1986年に発覚した不渡り手形に伴う借金を、資産売却や親類などからの借り入れによりひとまずは完済していたが、その後親類からの借入金をこの司家屋敷を担保にした銀行借り入れにより弁済したことが原因となり、2005年(平成17年)2月に土地・建物が熊本地方裁判所にて競売にかけられ、穴吹工務店(高松市)に約2億円で売却された。建物はすべて取り壊され、跡地には同社のマンションが建設された。参道に面したマンション敷地内に「吉田司家跡」の石碑が存在する。宝物館には多数の相撲関係資料や美術品等が所蔵されていたが、その行方について日本相撲協会は「現在どうなっているか、まったく分からない」と述べていた。一方、田原総一朗と田中森一は、司家所蔵品の多くは司家の要請を受けたフィクサーの許永中や山段芳春の仲介で、阿含宗の桐山靖雄が出資する形で散逸の阻止に動いていたという説を共著の中で述べている。 その後も25世吉田長孝は相撲界への復帰と司家の権威の回復を目指して支援者らとともに活動しており、2015年には阿蘇市の阿蘇内牧温泉に新たな拠点を置く計画を公表、同年4月、阿蘇市小里において「相撲三神」の神霊を熊本市から移す「仮殿遷座祭」を挙行した。司家は今後本殿や土俵を建設して相撲文化の拠点となる施設を設け、相撲大会の開催や相撲を通じた地域おこし、更に横綱奉納土俵入りなどかつての司家の儀礼を復活させる構想を示している。「仮殿遷座祭」には松野頼久衆議院議員、佐藤義興阿蘇市長、髙島和男熊本県議会議員ら政界関係者も出席し、司家再興への支援の意向を表明したものの、こうした司家・熊本県関係者側の動きに対し日本相撲協会は全く反応していない。
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