相撲茶屋から相撲案内所へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 15:00 UTC 版)
「相撲茶屋」の記事における「相撲茶屋から相撲案内所へ」の解説
かつて歌舞伎や人形浄瑠璃の劇場では芝居茶屋とよばれる専属のお食事処が観客の食事や飲み物をまかなっていた。これと同じように、大相撲においても、宝暦から明和年間に江戸勧進相撲の観客同士で桟敷札の調達や飲食提供を行っていたのを起源として、寛政年間には相撲茶屋の前身である「桟敷方」と呼ばれる業者が組織された。天保年間には14の桟敷方が相撲会所から委託を受けて席札の販売や接客を行うようになった。1909年(明治42年)に旧両国国技館が設立された際に、当時の20あった桟敷方は入口に待合(待合茶屋)を設置して業務を行い、これより後「相撲茶屋」と呼ばれるようになった。 日本相撲協会は1957年(昭和32年)の制度改革の際、当時蔵前国技館に20軒あった「相撲茶屋」を新たに「相撲案内所」とし、それぞれの屋号をやめてこれを「一番」から「二十番」の案内所とした。そして新規に「相撲サービス株式会社」を立ち上げ、各案内所をその傘下に置いて法人化した。相撲サービス社は1985年(昭和60年)に国技館が台東区の蔵前から墨田区の横網に移転する際、この社名が墨田区ではすでに登記されていたため、当時の日本相撲協会春日野理事長の発案で現行の「国技館サービス株式会社」の名称に変更された。 しかし、今日でもこれらの業者のことを正式名称の「相撲案内所」と呼ぶことは稀で、一般には「相撲茶屋」または「お茶屋」と呼ぶことがほとんどである。NHKも「相撲茶屋」の方を主に使う。「一番」から「二十番」の案内所番号に至ってはほとんど有名無実化しており、それぞれのお茶屋では今日でもそれぞれの由緒ある屋号を前面に打ち出して使用している。それぞれの枡に置かれた湯のみや急須(かつて枡席での喫煙が認められていた時代には灰皿も)、出方の持っている荷物運搬用の籠には、その枡席を保有するお茶屋の番号が無造作にマジックインキで書きつけられている。作家の喜多哲士は自身のウェブサイト「大相撲小言場所」で、この有様を「大相撲は現代に残る江戸時代だ。スポーツではない、興行だ」と評している。
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