田中屋、松屋の再建
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1975年に社長の小菅から命を受けて、松坂屋の増床や西武百貨店の進出で業績の悪化していた静岡市の田中屋(田中屋伊勢丹を経て現静岡伊勢丹)の再建に取り組んだ。当時の田中屋は売場面積が他店の半分以下の9,000m2しかなかったため、隣接地を買収して増床する方針を打ち出している。その一方で翌年には建築基準法が厳格化される事が決まっていたため買収と融資の手続きに奔走し、三菱銀行の伊夫伎一雄の理解もあって200億円の融資を受けた。また静岡でも労働組合との綿密な関係を築き、新店舗開業への道筋をつけた(新店舗の開業は1977年10月)。 1976年3月に、経営難で無配に陥っていた松屋の古屋竜太郎社長と労組委員長の鈴木健勝からそれぞれ出向の要請を受けた。これは断ったものの、徐々に軋轢が生じていた伊勢丹オーナーの小菅丹治から4月に厳命を受け、5月に松屋の副社長に就任した。伊勢丹の社員10名以上が同行を申し出たが、小菅が移籍を禁じた事もあって担当だった秘書だけが一緒に転出している。 当時の松屋は多店舗戦略やゴルフ会員権販売の失敗、またオイルショックの影響を受け、売上は対前年比マイナス97%の経営危機に瀕していた。売り場の士気も低く、商品ケースは汚れてほこりをかぶり、従業員は意気消沈していたという。着任までの1か月に方針をおおむね固め、創業地でもあった横浜店を1978年横浜松坂屋へ売却し、約400名の希望退職者募集、約140億円にも及んだ借入金を当時メインバンクであった三菱銀行へ一本化するなどの対策を行った。 また、銀座店では売上の減少していた呉服売場の移転・縮小、1フロアにまとまっていた婦人服売場を複数階に分けた立体的な展開、縦横に加えて放射状通路の導入などの改装を行い、1978年9月にリニューアルオープンしている。同月には、経営再建の一環として1年以上かけて検討したコーポレートアイデンティティ(CI)を阪神百貨店と同時期に導入する。CI導入に際しては、日本のCI導入史に残るプロジェクトともなった。現在のロゴはこの1978年に導入されたものが基本となっている。その後も1980年1月まで3次に渡って銀座本店で全面的な大改装を行い、その際も社員の参加を求めた。特に社内的に常務会よりランクが上のリニューアル常任委員会にも組合の委員長と書記長を配置した姿勢は、元執行委員長の鈴木に評価されている。 一方でハード面の投資とは別にソフト面での再建対策として、全社員に対しても経営参加姿勢を促すため、閉店後に売場で社員集会を開き、40-50分かけて直接対話により徹底討論する機会を毎週1回のペースで設けた。事前指名した売場責任者が商品計画や顧客分析など年間のデータを調査し、それに基づいて報告した販売計画や利益の見通しに対して山中が質疑を行い、社員からも活発な質問を受けたという。この集会は松下村塾をもじって『松屋村塾』、または『山中塾』、『山中村塾』、『山中学校』などと呼ばれたという。 これらが功を奏し、売上が3年間連続で対前年同月比二桁成長という結果につながり、1981年にはわずか3年足らずで復配を果たした。また、この間の1979年に松屋社長に就任している。なお、『松屋村塾』の中から出た木曜日の定休日は時代にそぐわないという意見により定休日を火曜日に変更し、この際生み出された言葉『ハナモク』は1988年の流行語大賞新語部門・銀賞にもなっている。さらに、山中の姿勢として全社員に売上・収益などの経営情報のすべてをガラス張りで徹底して公開した事で、社員の勤労意欲をかき立て、再建への礎を積み上げた。松屋副社長に就任した当時に600億円程度だった売上は1990年には1,000億円台にまで伸長しており、山中が築いた松屋のスタイルが銀座における人気店としての地位を後々に至るまで不動の物にしたといっても過言ではない。
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