玄界島の全島避難と復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 08:46 UTC 版)
「福岡県西方沖地震」の記事における「玄界島の全島避難と復興」の解説
震源に近い福岡市西区の玄界島では、倒壊した住宅から女性が救出されるなど重傷10人、軽傷9人の合わせて19人の負傷者が出た。また、当時の住家総数214棟のうち、半数にあたる107棟が全壊、46棟が半壊、61棟が一部損壊と建造物の大半が大きな被害を受けた。 離島において被災率が高い状況では、多くの住民が島内で避難生活を続けることに困難が予想され、余震による被害拡大の恐れもあった。こうした理由などから、自治会や漁協などの主導で、地震から約5時間後の16時に全島避難を決定し、自治会長など約10人を残して、住民約700人の大半が当日夜までに福岡市本土に避難した。海路の避難にあたっては福岡市有客船や福岡市消防局の消防艇、海上保安庁(第七管区)の巡視艇などが搬送を担い、陸上では消防の輸送車や民間からの借り上げバスなどが搬送を担った。主要避難先となった中央区の九電記念体育館では当日夜までに約430人が避難し、その後、避難生活を送った。 玄界島では、南側に住宅が集中しているが平坦地が少ないため、石積みやコンクリートの擁壁で住宅裏の斜面を覆い、その前に住宅が建つ形式が多かった。のちの調査では、古い木造住宅の倒壊や屋根の被害が目立ったうえ、擁壁の崩壊により重ねて被害を受けた住宅も多くみられた。一方で、比較的新しい住宅では斜面にあってもほとんど被害を受けない例が見られた。単純な石積み擁壁では高さ1メートル程度のものでも崩壊が見られたが、コンクリートで間を埋めた石積みのものは高さ1.5メートル程度までは亀裂程度に留まっており、さらにコンクリートブロックでは高さ5メートル程度までは亀裂程度に留まったという結果が報告されている。 福岡県知事は、発生当日に自衛隊の災害派遣を要請した。当日から4月25日までの約1か月間、延べ約4,100人(最大時約310人規模)が動員され、玄界島住民の避難支援や避難先での給水・給食活動、医療活動、半壊家屋へのビニールシート展開などの活動を行った。ビニールシート展開は、地震2日後の3月22日に予想された大雨に備えるもの(22日には大雨警報が発表された)で、3月21日から自衛隊と警察・消防が協力して作業を行った。 避難生活が長期化する中、避難所で風邪やインフルエンザが流行して一時50人以上が入院または福祉施設に入所する事態も発生した。 避難の長期化が見込まれたことから、仮設住宅が建設された。建設地の選定にあたっては、コミュニティ維持のため集団での入居を希望する意見、生活基盤である漁港の近くに住みたいという意見がある一方で、島の平坦地に空き地が少なく、島にすべての仮設住宅を建てることはできないという問題が生じた。すべて福岡市本土に建てる案もあったが、島が無人の期間が長期化することへの懸念から、島と本土に分けて建設することとなった。地震から1か月後の4月24日には博多漁港に隣接する福岡市本土・中央区の公園「かもめ広場」に100戸、翌4月25日には玄界島に100戸、合わせて200戸が完成し、195世帯517人(入居当初)が入居した。 その後、島の復興計画が決定し、戸建て住宅50戸、市営住宅65戸、県営住宅50戸の計165戸を道路や公園などと同時に整備することとなった。かもめ広場の仮設住宅からは、2007年3月末に78世帯、2008年3月25日に残りの世帯が帰島した。戸建て住宅への入居者は、2008年3月から5月にかけて仮設住宅から転居を行った。一方、復興事業完了後の2008年2月末の時点の人口は571人となり、地震前に比べて2割減少した。 復興事業の総事業費は71億円で、国庫補助を受ける小規模住宅地区改良事業から半分程度を拠出し、約1割は土地建物の販売益と市の一般財源が充てられた。そして残りの約4割を市債(玄界島復興事業債)で賄っている。 玄界島の漁協では地震後、「元気バイ!!玄界」を合言葉としロゴマーク化した合言葉をデザインしたユニフォームを作成したり、出荷時に玄界島の水産物に「元気バイ!!玄界」のステッカーを貼ったりするなどしてPR活動を行った。 玄界島では、地震当時は昼食前だったため多くの家庭でガスを使っていたものの住民は避難する前にガスを消す冷静な対応をとった。これには、昼間は男性が漁に出て女性中心となるため婦人消防隊が組織されていたことが功を奏したという見方もある。また、消防や警察が常駐していないにもかかわらず、死者も火災も出さず、普段から密な付き合いのご近所同士で所在を確認し、取り残された高齢者を助ける光景が見られた。これらは強い地域コミュニティの効果だと考えられ、のちの東日本大震災における東北沿岸の津波被災地でも参考にされるなどしている。その一方、玄界島では住宅・道路がきれいに復興整備されたことで、逆にご近所同士のつながりが希薄になった面もあると報じられており、以前はほとんどなかった高齢者の孤独死が発生したり、数人相乗りで出かけていた漁に単独で出ることが増えて島の消防団を担う漁師同士の結束が懸念されたりと、復興の難しさも露呈している。
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