犯人及び関係者たちへの尋問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:17 UTC 版)
「火薬陰謀事件」の記事における「犯人及び関係者たちへの尋問」の解説
事件関係者たちへの尋問は法務長官のエドワード・コークが担当した。これは約10週間に及び、ロンドン塔の補佐官の宿舎(現在のクイーンズ・ハウス(英語版))で行われた。最初の尋問において拷問が行われたという確証はないが、セシルが何度か拷問の実施を示唆している。後にコークが明かしたところによれば、陰謀の余波に巻き込まれた者たちの自白を引き出すには、多くは拷問するという脅しだけで十分であったという。 自白状の全文が記録されているのは、11月8日付のフォークスのものと、11月23日付のトマス・ウィンターのものの2つだけである。フォークスとは異なり、最初から陰謀に関わっていたウィンターは、枢密院に極めて貴重な情報を提供することができた。ただ、自白状の筆跡は間違いなくウィンター本人のものであるのに対し、署名(サイン)は明らかに従来のものと異なっていた。それまでのウィンターのサインは名前だけだったものが、この自白状ではファミリーネームがあり、さらに綴りは「Wintour」ではなく「Winter」となっていた。これに関しては何らかの政府の干渉があった可能性もあるし、あるいは、ホルベッチ・ハウスでの戦闘にて重傷を負った肩を固定された状態で書いたがために単に短く書いた方が痛みが少なくてすんだという可能性もある 。ウィンターの自白では、兄ロバートについては一切触れられていない。この2つの自白状は、1605年11月下旬に発行された、陰謀に対する政府の公式見解を急遽したためた書類、いわゆる『キングス・ブック(King's Book)』に掲載されている。 トマス・ベイツの自白はセシルがカトリック司祭を事件に結び付けるために必要な情報の多くを提供することに繋がった。12月4日にベイツはイエズス会のオズワルド・テシモンド神父が計画を知っていたと告白した。1606年1月13日の尋問では逃亡中の11月7日にケイツビーの命令を受けてコートン・コートのガーネットとテシモンドを訪ね、計画の失敗を伝えたことも明かした。また、テシモンドと一緒にハディントンに行って、彼がハインドリップ・ホールのハビントン家に向かうのを見送ったことや1605年10月にガーネット、ジェラード、テシモンドの3人で会ったことなどを尋問官に話した。尋問において陰謀にイエズス会が関わっていることを白状したのはベイツだけである。ただし、アントニア・フレーザーは、ベイツの証言の信憑性に疑問を呈している。なぜなら、ベイツは他の仲間たちの中で唯一下層階級に属していたために拷問を受ける危険性が高く、このために尋問官の機嫌を取ろうとして虚偽の自白を行った可能性がある。後にベイツは自分の処刑が回避できないと知ると、これら自白を撤回した。 同様にトレシャムの証言も後々イエズス会、特にガーネット神父を追い込むことに繋がった。捜査に非協力的であったトレシャムは11月13日に自分が事件に関与していたことを認めたものの、ケイツビーの頼みを拒否した限定的な役割であったことや、計画を遅延させ、当局に通報する意思があったと弁明した。一方で陰謀発覚に寄与したモンティーグルの手紙に関しては何も触れなかった。また、自分が1602年から1603年にかけての「スペイン反逆事件」に関与していたことを明かし、その際にスペイン側の要人との取次としてガーネット神父を頼ったことを告白した。12月に入ってトレシャムは尿路炎症によって健康を害し、塔内で治療を受けるも容態は悪化していった。そのままトレシャムは12月23日未明に亡くなった。臨終の間際にガーネット神父に関することなど、いくつかの自白を撤回したが、これは後のガーネットの裁判で当局に利用された。さらに、ガーネット宛の謝罪の手紙や、所持していたガーネットの論文なども、同裁判でコークに効果的に利用された。なお、逮捕された犯人達の中で唯一獄死し、裁判にかけらなかったトレシャムであったが、その遺体は斬首されてケイツビーやパーシーのものと一緒にノーサンプトンに晒し首にされ、身体はタワー・ヒルの穴に投げ込まれた。 ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーは困難な状況に立たされていた。11月4日に行ったトマス・パーシーとの昼間の食事は不利な証拠であり、トマスの死後は、彼の罪を立証することも、容疑を晴らすこともできる者がいなくなっていた。枢密院は、計画成就のあかつきにはノーサンバランド伯が傀儡の女王に即位させられたエリザベスの摂政になっていたと疑っていたが、彼を有罪にする証拠は不十分であった。伯爵はロンドン塔に留め置かれ、1606年6月27日、ついに侮辱罪で起訴された。彼はすべての公職から追放され、3万ポンド(2021年現在で約660万ポンド)の罰金を科され、最終的に1621年6月まで塔に幽閉され続けた。モーダント卿とストートン卿は星室庁の裁判にかけられた。彼らにはロンドン塔への収監が宣告され、1608年にフリート監獄(英語版)に移送されるまで幽閉されていた。また、どちらにも多額の罰金が科せられた。 他にも陰謀には関与していないが、メンバーと個人的関わりがあって尋問を受けた者たちもいた。ノーサンバランド伯の兄弟であるアレン卿とジョスリーン卿が逮捕された。第2代モンタグ子爵アンソニー=マリア・ブラウン(英語版)は、フォークスがかつて仕えていたこと、10月29日にはケイツビーに会っていたことから衆目を集めたが、数か月後に釈放された。アグネス・ウェンマン(英語版)はカトリックの家系で、エリザベス・ヴォークスと血縁関係にあった。彼女は2回の尋問を受けたが、最終的には告発は取り下げられた。パーシーの秘書であり、後にノーサンバランド家の家計管理官となるダドリー・カールトン(英語版)は、火薬が保管されていた金庫の借り主であったため、結果としてロンドン塔に幽閉されていた。セシルは彼の釈明を信じ、釈放を許可した。
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