波乱の天皇賞(秋)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 07:41 UTC 版)
「ギャロップダイナ」の記事における「波乱の天皇賞(秋)」の解説
この競走で大本命と目されていたのは、前年に史上4頭目のクラシック三冠を達成するなど、ここまでGI競走5勝を挙げて、当時から既に史上最強馬と言われ「皇帝」の異名を持っていたシンボリルドルフ(岡部幸雄騎乗)であった。4月の天皇賞(春)以来半年ぶりの出走、さらに秋の舞台である東京2000メートルコースでは不利とされていた大外17番枠という悪条件が重なりながらも、調教師の野平祐二は「今回は休み明けでも思い通りの仕上げができた。昨日競馬場に入ったが、飼い葉食いなど、むしろ美浦にいたときよりいいぐらいだし、ますます自信がわいてきた。枠順は関係ない」「競馬に絶対があることを証明したい」と強気であった。前日発売における同馬の単勝オッズは1.0倍、その後動いたものの、最終オッズで1.4倍という圧倒的な支持を集めていた。 一方のギャロップダイナは、それまで主に騎乗していた柴崎勇がロシアンブルーに、東信二がアカネダイモンに騎乗するため騎手も確保できておらず、競走3日前になって、矢野と師匠同士が兄弟弟子という関係で、ようやく根本に代役が決まった。しかし、調教にさえ騎乗していなかった根本はとくに勝算があるとも考えておらず、当日競馬場に向かう車中で、親友の加藤和宏と「もし万が一勝ったら賞品の車をトンカチで叩き潰そうや」と軽口を叩いていたという。出走を決めた吉田善哉もシンボリルドルフに勝てるとはみておらず、同日に所有馬シャダイソフィアが出走するスワンステークスを見るため京都競馬場にいた。また、当時のギャロップダイナはまだ1階級下の1400万下(→1600万下、現・3勝クラス)の条件馬の身であり、前走同条件競走に出走して2着に敗れていたこともあって、ギャロップダイナの最終オッズは88.2倍の13番人気で伏兵扱いだった。 スタートが切られると、シンボリルドルフは躓いて出遅れ、後方からのレース運びとなった。そこから強引に押し上げていき、最初のコーナーでの12番手から、最終コーナーでは2番手という位置で最後の直線に入る。そしてウインザーノットとニホンピロウイナーを振り切って先頭に立ったが、最終コーナー出口から直線入口にかけて15番手の位置から、直線に入って外に持ち出して追い込んだギャロップダイナがゴール寸前でこれを捕らえ、半馬身差をつけての優勝を果たし大波乱となった。走破タイム1分58秒7はトウショウボーイが保持した記録を0秒2更新する日本レコード。単勝配当8820円は、天皇賞史上最高額(記録はいずれも当時)であった。 競走後のインタビューで心境を問われた矢野は「わかるでしょう。最高、ほんとうに最高です。夏の北海道遠征を終えて帰ってきてから、馬に落ち着きが出てきたと思います。とにかく、新潟でデビューしたとき、春のクラシックのことを考えていたのですから、この春からの充実ぶりは、期待通りの成長と言えますね」などと語り、根本は「この馬は3~4コーナーの行きっぷりがいいから、それにだまされちゃいけないってことは言われてました。だからずっと我慢して、手応えがいいと思っても、ひたすら我慢したということです。出る以上は負けないぞ、と思って乗っていましたが、相手がなにしろみんな強いですからね」などと語った。敗れたルドルフ陣営の野平は「負け惜しみで言えば、いくらルドルフでも、あれだけ強引なレースをすれば、ゴール前の詰めが甘くなってしまう。負けた瞬間、締め付けられ金縛りにあったように動けなかった」と述べた。 なお根本は後年、この競走について次のようにふり返っている。 (略)見るからに格下だし、芝も下手だし、矢野先生でさえ「頼むからケツにだけはならんでくれよ。1頭で流すつもりで4コーナーまでおさえて、おさえて、直線2、3頭負かしてくれ」って具合でしたからね。いざゲートが開いたら、当のルドルフはもう向う正面の坂にいて一気にハナ行ってるじゃない。「ややっ、やっぱ強いわ。あれは勝つわ」なんてもんですよ。で、こっちは3コーナーでまだおさえてて、4コーナーまわって「まだだめかな、もうちょいかな、もういいだろう」って、やっと追ったら行くわ、行くわ。凄い末脚なんですよ。「おっ、こりゃ8着あるぞ。賞金だ。あれ7だよ、6だ、あらら5だ、掲示板に載るよ。4だ、よし行っちゃえ」なんていってる間に、「ちょっと待てよ、いま、俺の左の脇からチラッと見えたの、あれルドルフの勝負服だよな。……まさかあ、相手は皇帝よ」「あら勝っちゃった」だって。(略) — 根本康広、『優駿』1991年12月号、p.59より引用 またその一方では、次のようにも述べた。 まだ中山が改装される前、ちょうど風呂入ってたときにね、吉永正人さんに言われたの。メインレースに乗ることになってて、吉永さんが「おお重賞か。いいじゃないか」って。そこで「いやあ、出るだけですよ」って言ったらね。「おまえ、ちょっとこっち来い」って言われて、「勝ちたいと思ったって俺は出てないんだ。根本は出てるから勝つチャンスはあるんだ」ってね。そうだなと思った。それは天皇賞勝つ前だけどね。それで、天皇賞でルドルフ破ったときに、ああ、こういうもんなんだな、競馬は怖いなと思った。(略)あんときの写真あるけども、岡部さん、俺のほう見て、アーッて顔してるからね。"なんでこんな馬に"って感覚で見られてたんだよ、きっと。 — 根本康広、『競馬コーフン読本』pp.115-116より引用 この競走を民間放送(フジテレビ)で実況していた堺正幸(当時フジテレビアナウンサー、現・フリーアナウンサー)は、ゴール直後に「あっと驚くギャロップダイナ根本康広!!…、あっと驚くギャロップダイナ右手を高々と上げています…」と実況した。そこで思わず出た「あっと驚くギャロップダイナ」というフレーズが、この競走の回顧をする雑誌などに掲載され、この競走でギャロップダイナを語る上での枕詞になった。
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