波乱の大奥とは? わかりやすく解説

波乱の大奥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 01:09 UTC 版)

天璋院」の記事における「波乱の大奥」の解説

安政5年7月6日1858年8月14日)に家定急死し同月16日8月24日)には斉彬までもが死去してしまう。篤姫結婚生活はわずか1年9か月であった家定の死を受け篤姫落飾し、戒名天璋院殿従三位敬順貞静大姉、通称天璋院名乗る同年11月22日付にて下記如く従三位叙位を受ける。 藤原朝臣敬子 右可從三位中務曩歸將家修德殊守貞潔旣爲女則宜授好爵式表秀特可依前件主者施行安政五年十一月二十二日 (訓読文中務、曩(さき)に将家将軍徳川家)に帰(とつ)ぎ、克(よ)く徳を修め殊に貞潔ていけつ)を守り、既に女則(にょそく)と為す宜しく好爵を授け、式(もって)秀特を表(あらは)すべし、前件に依り主者施行すべし、安政5年1858年11月22日同年12月2日当人披露) — 天璋院敬子叙従三位位記一部)「九条家文書家定後継として、家定従弟紀州藩主だった徳川家茂14代将軍に就任することとなったその後さらに幕府公武合体政策進め文久2年1862年)には朝廷から家茂正室として皇女・和宮大奥へ入る事になる。薩摩藩天璋院薩摩帰国申し出るが、天璋院自身拒否して江戸で暮らすことを選んだ和宮天璋院は「嫁姑」の関係にあり、皇室出身者武家出身者生活習慣違いもあってか不仲だったが、後には和解した。このあたりの事情について勝海舟が『海舟座談』で述べている。また、天璋院が自ら擁立する予定だったにもかかわらず第15代将軍慶喜とも仲が悪かったことが勝の談話などからうかがえる慶応2年1866年)の慶喜大奥改革に対しては、家茂死後静寛院宮」と名乗っていた和宮と共に徹底的に反対している。 慶応3年1867年)に慶喜大政奉還をするも、その後起きた戊辰戦争徳川将軍家存亡の危機に立たされた。その際天璋院静寛院宮は、島津家朝廷嘆願して徳川救済慶喜助命尽力し攻め上る官軍西郷にも救済懇願書状を、幕府御典医浅田宗伯走らせ東海道川崎手交させている。そして、江戸城無血開城前にして大奥立ち退いた慶応4年1868年4月新政府から従三位位階剥奪されている。

※この「波乱の大奥」の解説は、「天璋院」の解説の一部です。
「波乱の大奥」を含む「天璋院」の記事については、「天璋院」の概要を参照ください。

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