波乱の大奥
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安政5年7月6日(1858年8月14日)に家定が急死し、同月16日(8月24日)には斉彬までもが死去してしまう。篤姫の結婚生活はわずか1年9か月であった。家定の死を受け篤姫は落飾し、戒名は天璋院殿従三位敬順貞静大姉、通称天璋院と名乗る。同年11月22日付にて下記の如く従三位の叙位を受ける。 藤原朝臣敬子 右可從三位中務曩歸將家克修德殊守貞潔旣爲女則宜授好爵式表秀特可依前件主者施行ぬ安政五年十一月二十二日 (訓読文)中務、曩(さき)に将家(将軍徳川家)に帰(とつ)ぎ、克(よ)く徳を修め、殊に貞潔(ていけつ)を守り、既に女則(にょそく)と為す、宜しく好爵を授け、式(もって)秀特を表(あらは)すべし、前件に依り主者施行すべし、安政5年(1858年)11月22日(同年12月2日に当人に披露) — 天璋院敬子叙従三位位記(一部)「九条家文書」 家定の後継として、家定の従弟で紀州藩主だった徳川家茂が14代将軍に就任することとなった。その後さらに幕府は公武合体政策を進め、文久2年(1862年)には朝廷から家茂の正室として皇女・和宮が大奥へ入る事になる。薩摩藩は天璋院に薩摩帰国を申し出るが、天璋院自身は拒否して江戸で暮らすことを選んだ。 和宮と天璋院は「嫁姑」の関係にあり、皇室出身者と武家出身者の生活習慣の違いもあってか不仲だったが、後には和解した。このあたりの事情について勝海舟が『海舟座談』で述べている。また、天璋院が自ら擁立する予定だったにもかかわらず、第15代将軍・慶喜とも仲が悪かったことが勝の談話などからうかがえる。慶応2年(1866年)の慶喜の大奥改革に対しては、家茂の死後「静寛院宮」と名乗っていた和宮と共に徹底的に反対している。 慶応3年(1867年)に慶喜が大政奉還をするも、その後に起きた戊辰戦争で徳川将軍家は存亡の危機に立たされた。その際、天璋院と静寛院宮は、島津家や朝廷に嘆願して徳川の救済と慶喜の助命に尽力し、攻め上る官軍の西郷にも救済懇願の書状を、幕府御典医の浅田宗伯を走らせ、東海道川崎で手交させている。そして、江戸城無血開城を前にして大奥を立ち退いた。慶応4年(1868年)4月に新政府から従三位の位階を剥奪されている。
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