波乱の幼少期
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永正3年(1506年)、多賀山通広の次男として生まれたが、永正10年(1513年)に母と死別する。 永正11年(1514年)9月9日、叔父の花栗弥兵衛が、父の通広と兄の又四郎を殺害し、蔀山城を乗っ取った。通続は乳母に負われて難を逃れ、通続の叔母が出雲国飯石郡懸合の多賀殿の女房だった縁から、懸合に落ち延びた。なお、この時に多賀山氏の系図は失われたため、後年の永禄2年(1559年)12月に通続は曽祖父以来の系図を書き記すこととなる。 しかし、永正12年(1515年)1月20日、檜木谷にて多賀山氏家臣の井上八郎右衛門尉が花栗弥兵衛と刺し違えて討ち果たしたため、通続は帰還して多賀山家の家督を相続した。後に通続は、井上八郎右衛門尉は多賀山家にとって大功ある者であるとの賞賛を書き残している。
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波乱の幼少期
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「ジェームズ1世 (スコットランド王)」の記事における「波乱の幼少期」の解説
ジェームズ1世はロバート3世と王妃アナベラ・ドラモンド(英語版)の三男として生まれた。1402年3月、兄のデイヴィッド(David Stewart)が幽閉先のファイフのフォークランド宮殿で原因不明の死を遂げると、1404年12月にロスシー公・キャリック伯に叙爵された。 父王ロバート3世は長男デイヴィッドの死が幽閉時の監督責任者であった王弟オールバニ公ロバートによる暗殺ではないかと疑った。そこで1406年にロバート3世は当時まだ11歳だったジェームズを保護するために同盟国フランスの宮廷に送ることにした。しかし、その航海の途中でジェームズの乗った船が当時フランスと敵対していたイングランド勢に拿捕され、そのままイングランド王ヘンリー4世の許へ送られた。伝えられるところでは、ジェームズが捕らえられたことを知った父王ロバート3世はその失意がもとで崩御したという。
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