法華堂(三月堂)諸仏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 09:27 UTC 版)
「東大寺の仏像」の記事における「法華堂(三月堂)諸仏」の解説
詳細は「東大寺法華堂」を参照 法華堂(三月堂)は大仏殿の東方、若草山麓にある東大寺の仏堂である。境内北西にある転害門(てがいもん)などとともに、東大寺に現存する数少ない奈良時代建築の一つである。堂は諸仏を安置する「正堂」(しょうどう)とその手前の「礼堂」(らいどう)の2棟を繋いだ形になり、正堂部分は奈良時代の建立、礼堂部分は鎌倉時代の改築である。正堂の須弥壇には、中央に本尊の不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん、ふくうけんじゃくかんのん)立像、その左右に梵天・帝釈天立像、本尊の手前左右に一対の金剛力士立像、須弥壇の四隅に四天王立像が立つ。これら諸仏のほか、本尊の背後の厨子内には秘仏・執金剛神(しつこんごうしん・しゅこんごうしん)立像が北向きに安置される。以上の諸仏のうち、本尊、梵天・帝釈天、金剛力士(一対)、四天王(4躯)の計9体は乾漆造、執金剛神像は塑造である。かつては以上の諸仏以外に、塑造の伝日光菩薩・月光(がっこう)菩薩立像、同じく塑造の吉祥天・弁才天立像(一対)、木造の不動明王及び二童子像、木造の地蔵菩薩坐像が安置されていたが、これらの像は2011年の東大寺ミュージアム開館後はそちらへ移されている。 大仏造立以前、平城京東方の若草山付近には「金鐘寺」(こんしゅじ、きんしょうじ)および「福寿寺」という、東大寺の前身にあたる寺院が存在した。この2つが天平14年(742年)に合併して金光明寺(大和国国分寺)、のちの東大寺になったと考えられている。これら前身寺院と法華堂の関係は複雑難解である。『東大寺要録』は金鐘寺の創建を天平5年(733年)のこととするが、金鐘寺のさらに前身は、聖武天皇によって神亀5年(728年)に創建された山房(金鐘山房または金鍾山房)にさかのぼる。神亀4年(727年)、聖武天皇と光明皇后の間には第一皇子の基王(もといおう)が生まれた。生後間もない基王は皇太子に立てられるが、生まれて1年も経たずに病死してしまった。皇子の死を悲しんだ聖武はその菩提を弔うため、「山房」を建てることとした。『続日本紀』によれば、神亀5年9月には基王の冥福を祈らせるために智行僧9人を選び、同年11月、智努王を造山房司長官に任命した。この智行僧9人のうちには東大寺初代別当・良弁が含まれていたとみられる。この山房の所在地については確証がなく、東大寺二月堂の北方にある丸山西麓の丸山西遺跡が山房跡ではないかといわれているが、春日奥山の香山堂(こうぜんどう)跡をこれにあてる説もある。この山房を「金鍾山房」と称するのは天平11年(739年)7月の「皇后宮職移案」(こうごうぐうしき い あん)という文書が初出である。天平12年(740年)、良弁はこの金鍾(金鐘)山房に新羅僧の審祥を請じて『華厳経』の講説を行っている。もう一つの前身寺院である福寿寺は、皇后の政務機関である皇后宮職と関連の深い寺院であった。『正倉院文書』に、天平10年(738年)に福寿寺のために紫紙の『大般若経』の書写が始まったとの記載があり、この時点での福寿寺の存在が確認できる。福寿寺の所在地についても確証はないが、現在法華堂や二月堂の建つ、上院地区にあったものと推考されている。現東大寺付近には他にも天地院、辛国堂などの関連寺院があった。天地院は和銅元年(708年)、行基の創建とされ、二月堂北方の丸山山上にあった。大仏殿の西方、戒壇院付近にも先行寺院があり、それが前述の辛国堂である。 正倉院に伝わる『東大寺山堺四至図』(さんかいしいしず)という絵図には天平勝宝8年(756年)時点の東大寺境内の様子が描かれているが、この絵図によると、当時、上院地区には「千手堂」と「羂索堂」があり、さらに東の春日山中には「香山堂」(こうぜんどう)があったことがわかる。このうち、千手堂は現存しないが、羂索堂は現在の法華堂(本尊は不空羂索観音)のことである。香山堂は、春日山の東方、春日山石窟仏付近にその遺構が残っている。この遺構は前述のとおり、聖武の建立した「山房」の跡とする見方もある。羂索堂の建立時期や当初の尊像構成については研究者によってさまざまな説が唱えられており、今後も新たな説が展開される可能性がある。
※この「法華堂(三月堂)諸仏」の解説は、「東大寺の仏像」の解説の一部です。
「法華堂(三月堂)諸仏」を含む「東大寺の仏像」の記事については、「東大寺の仏像」の概要を参照ください。
- 法華堂諸仏のページへのリンク