法華宗本興寺開く
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/10/23 06:28 UTC 版)
「日乗 (本興寺)」の記事における「法華宗本興寺開く」の解説
永徳3年(1383年)、南朝では弘和3年、題目宗の僧日陣(1339年 – 1419年)が東海地方を巡化していたが、薬師堂の僧(のちの日乗)は支院東光坊において法論を闘わせることになった。薬師堂の僧は、日陣を前に真言密教の法の正当性を主張し説き伏せにかかったが、毎日毎日法戦を行う中で自説の非を悟ることになる。ここで、弟子の東光坊日円や古見小山田坊日能とともに陣師の説に服し、改宗の上、大慈悲院日乗と名を改める。薬師堂の名も、法華経の如来寿量品第十六の常在霊鷲山から常霊山の山号、本法興隆寺から本興寺の寺号を陣師より頂き、常霊山本興寺と改めた。日陣45歳、日乗39歳のことであったと言う。日陣は弟子の大賢坊日登をとどめ、日登により1390年に遠江国新居(静岡県湖西市新居町)本果寺の日歳も陣門に服した。 後小松天皇の治世で征夷大将軍が足利義満(京の室町)の南北朝合一の明徳3年(1392年)、日乗は尾張国大橋家から招かれ、本蓮寺を尾張国海部郡(愛知県津島市池麩町)に開いた。
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