法華宗との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/29 04:46 UTC 版)
玄哉は、兄の江村栄紀と共に、当時六条堀川にあった本圀寺の檀那であり、玄哉の住んだ京都新在屋町の住民のほとんどは法華宗徒だった。 玄哉の子と孫である、五助等政と甚介宗二は、対馬に流罪になっていた法華宗不受不施派の祖である日奥が慶長17年(1612年)に赦免された際、対馬へ渡り、日奥を迎えに行っている。 承応2年(1653年)に、利休の曾孫である江岑宗左が、仕える紀州徳川家に提出した『千利休由緒書』には、利休の師は紹鷗であると書かれ、玄哉の名前は出てこない。その理由は、後の寛文5年(1665年)に禁制となる不受不施派と、辻玄哉の子孫が深い関わりを持っていたため、千家と辻玄哉の関わり合いを隠すためだった可能性がある。その結果、利休の師は紹鷗であるとの説が『南方録』を通じて広まったと考えられる。
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