横井らの対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:42 UTC 版)
「ホテルニュージャパン火災」の記事における「横井らの対応」の解説
本件ホテルの代表取締役社長である横井英樹は、火災発生現場に蝶ネクタイ姿で登場し、報道陣に対して拡声器で「本日は早朝よりお集まりいただきありがとうございます」「9階10階のみで火災を止められたのは不幸中の幸いでした」などと、緊張感に欠ける発言をしたことに加え、「悪いのは火元となった宿泊客」と責任を転嫁するかのような発言をした。 また横井は、火災当時に人命救助よりもホテル内の高級家具の運び出しを指示したとされる。その一方で同ホテルに保管されていた藤山愛一郎による中国近現代史料コレクション「藤山現代中國文庫」が焼失している。なお火災発生当時、警備室で対応にあたっていた警備員は、ホテル内にある家具類の搬出場所を指示した横井からの電話応対に追われていたため、いち早く現場に駆けつけて救助活動を始めようとしていた東京消防庁麹町消防署永田町出張所・第11特別救助隊隊長(当時)の高野甲子雄より「9階に行く非常階段を教えて欲しい」と言われても「今、社長と電話中だ」と言ってすぐに返事をしなかった。業を煮やした高野が警備員の胸倉を掴みながら「客の命がかかっているんです。すぐに教えてください!」と一喝したことで、警備員は初めて事の重大さと差し迫った危機を認知し、非常階段の場所を高野らに教えたという。横井は後に高野に“口止め料”として賄賂を持ち掛け、「どれだけ多くの人が亡くなったか分かっているのか!それを持って出ていけ!」と激怒した高野に追い返されたことも明らかになっている。 なお、高野はこの時に外国人客(救助後に病院へ搬送されるも死亡が確認された)の救助活動中、フラッシュオーバー現象に遭って身体が炎に包まれ、喉元に大やけど(気道熱傷。しかし救出直後に水を飲んだことで大事には至らなかった)を負った。当初は高野の部下である浅見昇が救助へ向かったが、部隊の中で最も俊敏な体力を有していた浅見は、煙が充満した10階フロアで館内捜索と救助を実施していた為、空気呼吸器のボンベ内の空気を大量に消費していた。男性客の救助活動中に空気ボンベの残量が少なくなった旨の警報が鳴った為、同僚隊員より「すぐに外へ脱出しろ」と指示された。このため浅見は、やむを得ず要救助者の宿泊客を部屋に残し屋上へ戻り、空気ボンベを交換後再度、先程の要救助者の救助活動を自ら志願した。しかし、部屋の中は、いつフラッシュオーバーが起きてもおかしくない状況だった為、高野隊長自らが救助活動を行った。なお、高野が火傷を負った際も高野自身は救助活動続行を志願したが、同行していた救急隊員に制止されて病院へ搬送されている。 横井の元部下は「横井社長は火災発生当時、ただ黙って途方に暮れ呆然としてばかりいて、部下に対して何一つ指示を出していなかった」と証言している他、当時の裁判記録には「儲けと経費削減に終始し安全を軽んじた横井の経営方針は『客を欺くのに等しい行為』と言われても仕方がない」とまで書かれている(フジテレビ系列『奇跡体験アンビリバボー』2015年10月8日放送分より)。 さらにホテルニュージャパンでは、必要最低限の人員による過酷な労働環境、従業員や警備員への給与遅滞、部下からの上申や要望が横井にことごとく退けられたことよる士気の低下、横井の極端なワンマン体制による組織間の意思疎通不足と、仕事に対する意欲低下が蔓延しており、さらに従業員への防災教育が完全に疎かになっていたため、火災発生時に火元の9階と上階の10階で宿泊客を避難誘導した従業員が誰一人おらず、客はそれぞれ独自の判断で避難を余儀なくされた。一人の客が9階にいた他の宿泊客を避難誘導するため自主的に最後まで行動し、その客は出張に同行していた部下を避難させたあと一酸化炭素中毒で力尽きた。その一方で従業員の大半は社長の横井と共に呆然と立ち尽くすのみだった。 横井は火災発生翌日(2月9日)以降の記者会見で謝罪はしたものの、防火管理体制の不備などを報道陣より指摘されても、自身の責任については曖昧な発言に終始した。横井の責任逃れとも取れる言動は、遺族などから手厳しく非難された。 のちに横井は「衆議院地方行政委員会」へ参考人招致され、その席上では「従業員に対しては日頃からお客様の安全を守るように教育してきた」と述べていた。しかし実態は横井の答弁と正反対で、少ない人員の割に膨大な仕事量という環境から従業員への防災訓練は殆ど行われていなかった(NHKアーカイブス「ホテルニュージャパン火災」動画より)。 ホテルニュージャパンは、火災発生から2日後の1982年2月10日に東京都より「消防法違反と業務上過失致死傷による営業禁止処分」を受けた。同年3月2日に東京消防庁は、消防法第5条に基づき2階以上の部分の使用停止を命令した。さらには同日に東京都都市計画局は建築基準法第9条第7項の規定に従って是正措置が完了するまで2階以上の使用を禁止する命令を出した。同ホテルは、その後に廃業した。火災事故直後には「出火お詫び」と題する文章が書かれた横井直筆の貼り紙をホテル正面玄関前に掲示していた。また犠牲となった宿泊客33人の仮通夜が営まれた港区芝公園四丁目の増上寺敷地内には、「ホテルニュージャパン火災事故の犠牲者を慰霊しその教訓を後世に伝えるための観音像」が火災事故から5年後の1987年2月8日に横井によって建立された。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}この火災を教訓に東京都、東京消防庁、国は「再三にわたる防火体制不備の改善指導に応じない事業所は、その名前(実名)を公表し、刑事告発する」制度を発足させた[要出典]。 同ホテルを事務所としていた戸川猪佐武は、ホテル火災で損害を受け、他のテナントと共に社長の横井に対する損害賠償訴訟を起こした。
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