根岸競馬場が果たした役割
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「横浜競馬場」の記事における「根岸競馬場が果たした役割」の解説
根岸競馬場での競馬開催が日本レース・クラブの主催に代わってからも、財政面では苦境に立たされ続けた。世界的な不況に加え、松方正義による財政立て直しを目的とした緊縮財政政策(松方デフレ政策)で国内の景気も後退。1884年(明治17年)には「官営工場払下げ概則」が制定、支出のかかる官営事業が次々と民間に払い下げられ、その一環として共同競馬会社に対する支援も停止された。この結果、根岸競馬1開催に対する政府からの支出額は10分の1以下に減少したほか、1885年(明治18年)からは陸軍省・農商務省・外務省も根岸競馬に対し、賞典寄贈などの財政的支援を停止。陸軍は1884年(明治17年)に馬政局から繁殖を除外したほか、1886年(明治19年)には軍馬局もいったん廃止。農商務省も競走馬の主な供給元だった下総種畜場を1885年(明治18年)に宮内省へ移管した。これらの影響で陸軍省・農商務省から馬匹の出場が取りやめられ、同年秋季の根岸競馬では雑種馬の競走馬が激減した。 一方、根岸競馬場は「鹿鳴館外交」とも呼ばれるように明治政府の外交政策(主に不平等条約の改正)とも密接な関係をもっていたため、根岸競馬場への明治天皇の行幸は1881年(明治14年)から1899年(明治32年)まで16回に及んだほか、政財界の要人が集う社交場としての役割も果たした。1880年(明治13年)には明治天皇から花瓶が下賜された競走「Mikado's Vase(現在の天皇賞のルーツ)」が始まり、1905年(明治38年)には「The Emperor's Cup(エンペラーズカップ、のちの帝室御賞典)」へと発展して天皇賞の前身となった。 当時の日本では社交としての競馬の重要性は認識していたが、馬匹改良の重要性や緊急性はそれほど強く認識されていなかった。しかし、松方財政政策で地方の馬産も縮小し、馬不足が深刻になっていた。さらに農商務省と陸軍省の間で馬政方針をめぐって対立したことも影響し、居留民の競馬への意欲も後退。1887年(明治20年)前後には存続も危ぶまれるような事態にまで陥った。 当初の目的だった不平等条約の改正が達成された後の帝国主義時代において軍用馬の果たす役割は大きく、軍用馬の能力水準が陸軍力にも直結していた。日本は国土が狭いうえ山地も多く、十分な数の馬を確保することが困難だったうえ、馴致や調教の能力も低く、兵器としての馬の性能はヨーロッパに比べ大幅に劣っていた。また、農用馬についても小規模区画の農地を賄える程度で足りていたため、江戸時代までの馬産に対する認識が明治に入ってもそのまま続いていた。しかし、軍隊が近代化するにつれて軍用馬に求められる役割や能力もより高度化したため、馬匹改良や兵士の騎乗能力向上が求められるようになった。日清戦争や日露戦争で日本の軍用馬の低質さが露呈したことで、競馬は優秀な馬を選別する能力検定や馬を操る人間の技術鍛錬を目的に据え、国策事業として奨励されることになった。イギリスの王侯貴族が競馬そのものに価値を見出して保護してきたのに対し、日本の競馬は政治権力が目的を達成するための手段(ツール)として利用されてきた歴史があり、この点で決定的に異なる。 根岸競馬場で行われた「Mikado's Vase」に系譜をもち、各地で年10回行われた帝室御賞典は1937年(昭和12年)秋から年2回開催に集約され、現在の天皇賞へと続いているほか、1939年(昭和14年)には「横濱農林省賞典四歳呼馬(現在の皐月賞)」が創設されるなど、根岸競馬場は現在につながる大レースの発祥地にもなっている。このほか、現在の重賞に相当する「特殊競走」として1928年(昭和3年)より横浜特別、1938年(昭和13年)からは横浜農林省賞典四・五歳呼馬が行われた。 「天皇賞#歴史」も参照
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