核兵器の完成までの道程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/15 10:22 UTC 版)
「フランスの大量破壊兵器」の記事における「核兵器の完成までの道程」の解説
1950年12月にシャルル・アイユレ大佐は、陸軍大学校で講演した際に「核兵器は将来、戦の鍵になる」と強調し、1951年11月にアイユレは参謀本部内に特殊兵器課を創設し、大量殺戮兵器(核兵器・生物兵器・化学兵器)に対する部隊防護を中心とした研究・調整を行なった。課員にはアイユレ大佐、モーリス・シャール空軍少将、ピエール・ガロワ将軍(後に、初核爆発実験の責任者となり、フランス原爆の父と呼ばれる。)等が参加していた。1952年3月、特殊兵器課は「核兵器の開発が戦費圧縮にも国家経済的にも優れており、この開発は急務である」との報告書を提出したが、政府は半信半疑であった。 1952年、原子力庁担当大臣フェリックス・ガイヤールが、プルトニウム原子炉5カ年計画を可決させた。 1953年以降、アメリカの軍事戦略は核兵器の使用を前提とするようになり、1954年11月のNATO理事会で、一方的にアメリカが決定権を持つ戦略を承認させた。これに対して、同年12月ルネ・プレヴァン国防大臣は上院で「NATOには西ドイツの参加を必要とする」と発言してアメリカを牽制した。プレヴァンは1954年に核兵器保有構想を打ち出し、既に政界を引退していたド・ゴールも4月の記者会見でこれを同意した。 1954年10月、ピエール・マンデス=フランス首相は核爆発委員会の設置を表明し、原子力庁内に軍事応用部を設けた。マンデス首相は12月26日に「核兵器を保有する国は他国に比べて国際外交上有利である」発言している。 1955年3月、エドガール・フォール首相は水爆開発計画を発表したが猛反発にあい、同年4月に発言を撤回した。 前年の1954年6月に、ディエンビエンフーの戦いをめぐって米仏間で原爆投下が協議されたが、これをイギリスのウィンストン・チャーチル首相に一蹴され、1956年11月のスエズ動乱でもソ連のニキータ・フルシチョフ書記長の核兵器の恫喝により撤兵のやむなきに至った。そのためフランス指導者層は核兵器の政治的威力を知り、アイユレ大佐のように公然と核武装を唱える者が現れ、ミクシェ中佐は過去の戦史に照らし合わせて研究し、核武装の必要性を訴えた。 1956年、西ドイツの再軍備とスエズ動乱の失敗をうけて、ギー・モレ首相は原爆実験と核融合研究の実施を決定する。これにより同年11月30日に原子力庁、国防省、財政経済省間で協定を結び、核兵器開発の推進、核センターの創設、アイソトープ分離工場の建設が決定された。12月5日、ポール・エリー参謀総長を長とする原子力軍事応用委員会が発足し、核兵器研究開発群が創設された。 同年中には、イスラエルとの間で原子力開発の秘密協定が結ばれ、ディモナに原子炉を建設することが合意された。1957年3月に設立された欧州原子力共同体では商業利用の問題とは別に、イタリアと西ドイツ間で秘密裏に核兵器開発をするように密約が交わされた。西ドイツのコンラート・アデナウアー首相が「ヨーロッパ自身の核兵器を保有したい」と発言したが、これは問題発言とされ撤回された。 1957年5月、フランス領アルジェリアのサハラ砂漠にあるレガーヌに実験場が定められ、爆発実験日は1960年上半期の予定で進められた。 スプートニク・ショックで生じたミサイルギャップを埋めるため、アメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官は、1958年7月5日に第五共和制大統領に就任したばかりのド・ゴールと会談して、「ミサイル基地(IRBM基地)と核弾頭貯蔵庫をフランス国内に設置することを求め、引き換えに原子力潜水艦用原子炉と濃縮ウランを提供する」ことを申し入れた。しかし、核の使用命令者について交渉は難航し挫折した。その後、一連のフランスによる核兵器開発計画が明らかになったために、1959年9月にアメリカは、フランス企業向けの商業利用目的の原子力技術とロケット研究及びフランス軍備計画への協力を禁止し、企業間契約は総て破棄された。
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